「有罪者」抜き書き

大事なことを書いているんだろうけど、何せ主語が何かとか、何をもって論をつなげているのか分からなくなることがある。わざわざ引用してすぐに書き換えられる場所でこうやってアホみたいなことをやってみるのもなかなかタメになるんじゃないかと思ったりする。
少なくとも、バタイユの文章ってのは論理的な展開でも読み易さに配慮していないのか、他の人のよりも分からなくなることが多い。抽象的だし。でもこの好き放題書き散らしているのを読んでいると、最近自分の書き方が生硬で同語反復にすら陥っていることに気付かされる。ナマの感じを文章にしたってなんとかなるってことを気付かせてくれる。もっとも、自分が同じくらい有能だなんて夢にも思うべきじゃないんだけど。
イタリック体は線を引いたところ。



「Ⅲ 天使」より。
ヘーゲルが真理を完了態の上に築いたことに対して

私は今、未完了態の上に築かれた真理を見る。だが、そにはもはや、基盤の見かけしかありはしないのだ!私は人間が渇望する対象を断念した。いま、私は――栄光につつまれながら――ある叙述可能な運動によって、何ものも押しとどめようとせず、何ものにも押しとどめることのできないほど烈しい運動によって、足をすくわれている。(p48-49)

人間の多くが完了態のもとに築かれる真理を求めるのに対し、著者はそれを断念したのか。印象的なので再引用。



以下は「Ⅳ 恍惚の点」より。
「方法」とは何のための方法?「恍惚に向かう欲望」のための?彼は方法を「習慣的な規律のゆるみに対して加えられる暴力を意味する」として続ける。

ひとつの方法は、書かれた文字によって伝達されることはありえない。文字は、たどられた道程をあとづけはするけれども、もっと別の道程だってありうるはずなのだ。ただひとつ、全般に通用する真理は、上昇が、緊張が避けがたい、ということだ。(p56)


ここあたりもよく分からない。特に「未完了」とは?既存の方法での把握が完了していないということ、それとも自身や世界自体が向かうべき状態に比べて未だ完了していないということ?たぶん後者だろうけど…
とりあえず恍惚へと向かう「道」について。

実質という観念が空虚なものとなりはてるほどの、それほどの強烈な変化を、それほどにも急激な燃えあがる擾乱を、想像してみてほしい。場所とか、外在性とか、視像とかいうことばは、どれもこれも空虚になってしまった。場ちがいな感じのもっとも少ないことば、融合(フュジオン)とか光(リュミエール)とかいうことばは、その本質からして捉えがたいものだ。(p57)


長ったらしく引用。

ひとつの全体は、それを考察の対象とする精神を欠かすことができない。精神の中にしか一なるものはないのだ。同様に、全体の欠損は精神の中にしか現れない。「全体」と「全体の欠損」とは、ともに、いくつかの主観的要素に端を発しつつ仮定される。だが「全体の欠損」は極度に現実的だ。全体とは任意の構造だから、欠損を知覚することは、結局、任意の構造を目のあたりにすることにひとしい。「全体の欠損」は、任意のものの持つ不完全、という手段を介して知覚される以上は、極度にというありかたでしか現実的たりえない。不完全は、構造とおなじく、非現実の中に位置する。それは現実物の方へみちびいてゆく。

流動する、変化する、多くの断片が存在し、これがつまり客観的現実である。
完了した全体というものがある。すなわち、見かけ、主観性だ。
また、全体の欠損というものがある。すなわち、見かけの次元におかれた変化、ただし、流動する、断片化した、補足しえない現実を明るみに出す変化だ。(p59-60)

分かりやすいような文章で書かれているので色々引っぱりたくなる。一見して安定しているように見えるものも、「断層」という不安定な“欠損”が現れることがある、という。そもそも全体というものが欠損を抜きにしては語れない、というのだろうけど、ではなぜ「全体の欠損」が極度に現実的だと言いながら、「不完全は、構造とおなじく、非現実の中に位置する」のだろうか。そもそも“非現実”とは何を指しているの?知覚的できないという意味で精神のことか?少し違うような気がする。……もしかすると、構造というもの自体が「見かけ」、つまり想定されたものであって、「流動する、断片化した、補足しえない現実」を捉えるための方便だということか。すると「極度に」とはすでに現実的でさえない、と。理解力たりねえな。。。
となると以下も同様だ。

神とは、起りうべき一切のものの――人間の慣習にかなった形での――全体化である。(p60)

キリスト教の許しがたい罪状は、聖なるものを「個別を創造する普遍」に結合してしまうことだ。(p69)

これも、先に「私はすでに、恍惚が神の貌ぬきで起りうることを疑わなかった。『普遍的なもののために個別を断念する』修道士、修道女のことを考えると、私には、いたずらっぽい嫌悪感がこみあげてきたものだった。」(p65)というあたりと同じだ。個別を普遍に従属させてしまうことのデメリット、「個別性は破滅と融合とに欠かすことができぬもの」(p69)であって、普遍という、なんというか、捨象することで逆に言葉足らずになってしまうことを言っている。“普遍”へと持ち込むこととは理解を止めてしまうこと?


あとは気になったところをちょいちょい傍線。

・一枚の刑苦の画像が目の前に置かれる時、恐怖から、目をそむけてしまうこともできる。だが、ひとたびそれを眺めれば、私はわれを忘れてしまう。……刑苦の身の毛のよだつ画像は、私という個人の個別性が閉じこもっていた(おのれを限定していた)気圏に穴をあける。その気圏を荒荒しく開き、引き裂く。(p70)
・人間は時として有用な事物から逃れようと希う。有用な事物が命じた労働から、労働の隷従から逃れようと望む。有用な事物は、同時に、閉ざされた個別性を(利己的な近視眼を)、生活の地を匍う卑俗さをも命じたのである。労働は人類を確立した。だが、絶頂においては、人類は労働からおのれを解き放つのである。(p72)