映画の感想文とは、わたしにとって何だったのか

20年弱前だった。映画を見たいと思い、映画について何か書きたいと思った。
それが意味することを考えることができなかった。ただ、偏執的に映画を映画館で見続けた数年間があり、それを証そうとするかのようにブログに感想を書き始めた。ありていにいれば、それは自らの足跡を残すための――自分の行為を無駄にしたくない、なけなしの金を空費したと思いたくないという、せせこましい動機から明らかに始められたものだった。そしてブログを続けるほどに、私は隘路にはまっていった。私の文章といえば、書き始めた当初から衝動的な面を多分に含み、ゆえに語彙や思慮を欠いて始まり、自分の言葉にならない部分を形にしようとする試みに終始していた。実に、それだけのものだった。自らの綴ったことばを技術的に振り返ることもせず、ただ言葉を垂れ流すだけだったと言ってもよいかもしれない。当時の自分も、その体たらくを認めるだろう。怒りと反発を前面から引きさがらせることもできずに。まったく一般的な文章の様式と論理展開のテクニックを身に着けず、ただ自分の「美意識」=「プライド」=偏屈と無知に固執するまま続けられたそのブログは、外部サイトに投降した感想文をきっかけに身近な者をはじめとして知られることになり、彼らも当然のようにそれが自己愛の副産であり、自慰行為にすぎない稚拙な落書きであることを見抜いて、それを笑った(「嗤った」と書くほど私は他責的ではない)。しかしどうすることもできなかった。私の抱えていた思いは、そのまま私の行き止まりだった。「どうすることもできなかった」のだ。そう、あのとき抱いた望み、物書きになりたい、映画評論で食べていきたい、という望みは、ただ行き詰まった者の呻きに過ぎなかった。もし仮に、文章を書こうと思った理由があるとするならば、映画を見たときの衝撃、感情、ことばにならない体験を残し、刻み、歪め、毀し、変え、産むだけの強度をもった手段として、言葉を信頼したかったからということになる。それは取りも直さず、言葉に触れる機会が他の体験よりも多かった者の帰結に過ぎない。だから私は、特定の相手に対して向けられた攻撃的な言辞によって相手を傷つけるのではなく、皆を狂わせる言葉を練り上げたいとも思ったのだった。