自覚を促すことの難しさ

その人に、いわゆる悪意ではなく、攻撃性の潜在可能性があることに気付いた。いや、私自身のもつ人全般に対する怯えが反転して、その人が攻撃性を潜在させていると思ったのかもしれない…。


それは、先日依頼された件に対応するために彼のデスクで予定以上の時間を費やしていたときであった。彼は私の作業内容に関心を示し、進捗に難渋しているところへいくつかの意見を述べることで、私の作業の後押しを担ってくれていた。たしかに彼と私は共通の話題に対して、議論という形で知的なコミュニケーションを行っていたともいえるだろう。しかし、私が想像していた以上に彼が鷹揚な態度を見せていたことに、極端な言い方をすれば――私は「底知れぬ攻撃性を感じ取った」のである。

いちおう私の予感もそれなりの理由があってのことらしい。彼自身がここに訪れて間もないこともあり、表面上取り繕うように努力している、今後強い態度で出るようになるかもしれないと言って冗談めかして笑っていたことを思い出す。


もし彼がそのような性質の持ち主であり、そのことを周囲に知られるようになれば/すれば、彼とのやり取りはいずれ面倒なものと捉えられるようになるに違いない。少なからず周囲との軋轢が生まれ、それを受忍するしかない立場にいると認識する者にとっては、またひとつ辛い要因が生まれることになるだろう。なんとなれば多くの人にとっては、自らを取り巻く状況は変更しがたいものものであるらしく、結局自らがその場を退くことによってしか状況を変えることができないと捉えている節があるからである。そういった捉え方自体に問題があるのは確かだが、ここでは別のことを指摘しておきたい。それは――上記仮定のうえであるが――、彼自身がそういった態度を陰に陽に周囲に知らせているという態度そのものに問題がある、ということである。

 

掲げた仮定のうえで進めよう。もし、自らの攻撃性が周囲に予感されていると彼自身が想定していなければ、彼にそういったことを感じ取る能力が乏しいか、自らの攻撃性のあらわれがコントロールできていないか、あるいは自らの攻撃性がどのような側面から周囲に感じ取られる可能性があるかを想定しきれていないか、彼自らが置かれた環境に対する依存の度合いが無自覚的に強いかといったあたりを想定する必要があるだろう。たいていの場合は、あるていど彼自身が自らの置かれた環境に依存しており、自らの攻撃性が周囲に知られる可能性をそこまで重視しておらず、場合によっては自らの攻撃性が場合によっては周囲が忍容すべきものだと考えているのではないだろうか。つまり自らが何ら誤ったことをするはずがない――自分は常に十分に周囲に気を使ってふるまっており、自らの考え方も至極常識的であり、自らが周囲に示す批判的な態度は正当な根拠に基づいている!――と「つねに」考えているだろうからである。


大なり小なり程度の差はあれど、そういった風に振る舞う者の極めて多いことを私は半ば確信し、常に違和感としての感覚を抱き続けている。彼らは、そういった考え方の傾向があることに自覚的である必要を感じていないのだろうか。彼らは、自らが常に間違っているかもしれないという可能性に思い至ることはないのだろうか。もし知っていたとしても、彼らはそれを認めることで自らの基盤が損なわれてしまうと無自覚的に感じており、恐れているのだろうか。


彼らが無自覚的であるほどに、介入は困難になるだろう。これについて少し説明を試みる。仮に、彼らに自覚を促しえたとしよう。「あなたは自らの正義が強すぎる、依存しすぎている」と。――恐らくこれは失敗するだろう。彼らがすぐに認めることはないだろうからだ。彼らが今の今に至るまでそういった態度を持ち続けてきたのは、彼らなりの「理由」が、あるいは「戦略」が奏功してきたからだ。もし自覚的に無自覚を貫いていたのであれば彼らにはそれを墨守する理由があったといえるし、彼らが無自覚的であったとすれば、彼らは上記述べた理由あるいは無自覚的な状態を守るべく策を凝らしてきたと言え、それについて言語化する機会さえ持たせずに来たのであれば、やはり議論の俎上に乗せること自体が困難だといえる。あえて言っておくが、私はこういった状況下での「教育」や「善導」に一切信頼を寄せていない。それは結局価値観の押し付けにならざるを得ず、彼らがいずれ無自覚に陥る機会を減らすことに寄与しえないと考えているからだ。


いや、少しは可能性を信じることができるのだろうか。……ここで私ははなはだ迷い始める。例えば「上知と下愚とは移らず」〔論語・陽貨〕に通じるのかもしれないが、結局変わりえないものがあることに対して我々ができることは一切ない、と私には言い切れない。確かにそういった嫌いはある。それは疑いない。内省ができない者は、いわば一生内省はできないだろう。自覚とは、それに至るための第一歩であり、いわば意識と無意識のインターフェイスに位置づけられるといえる。これはあらゆる局面で生起し、自らをときに脅威にさらす。それに気付くこと自体が恐怖であり、位相の異なることである。いわゆる無意識に対して開かれていない者は、いかに知性的であっても内省が難しいだろう。すなわち、ここに至らしめるのがいわゆる「教育」の真髄ともいえるのではないだろうか、とさえ考える。ここで問おう、ここまで読んだ人へ問おう。別の言い方で問おう。私が常に自らに問いかけてきた言葉で。

――足萎えは歩めるのか。いかにして歩めるのか。