不可視への道行き

この世は――あえてそう言おう――この世は、感情だけである。感情、その一語に尽きる。私の生きている世界、私の生きていると思っているこの世界、私が想い描いているこの世界という場、私のこの頭の中の全ては、感情でしかあり得ない。合理的思考、本能、知性、思想、それが何だと言うのか。すべて、絶えずうねり続ける、なづけようのない流れであり、私もまたその流れに過ぎない。
今回は、この私の迷妄を述べてみよう。

自分が受け入れられない出来事、たとえば周囲の人々からの叱責や怒り、そして私が失敗したと思った出来事。この受け入れられないものたちを私は、繰り返し繰り返し考え続けてきた。いったい何をしていたのか、何が起きていたのか、どうすべきだったのか、どうすればいいのか。何度も何度も読みなおし・解釈し続ける。過去と未来それぞれ、可能性を考えられる限り挙げていく。まるで嫌なものを克服するように、そうしないと誰かに叱られると思っているかのように。……なぜ叱られると思っているのか?……それは、私の頭で考えるということ自体が、どのようにやっても恣意を抜け出ることはないからだ。独りよがりであることを責める。まず、自分自身が、自分自身に。視野の狭い、愚物が立ち止まろうとすることを許さず、さらに追い立てる。自らが自らに「良し」と言うことを許さず、さらに追い立てる。まるで仮住まいに立てた土くれの洞に住み着こうとすることを許さず、尻の骨が折れるほどに蹴り飛ばす。限りなく責め立てる。より“妥当な”見方を求めて考え続けていく。
見方、解釈とは、目に見えるもの、簡単に情報を列挙して分かるものだけを指しているのではない。自分が目をそむけ続けているものや、まったく視界に入っていないもの、あるいは視覚的ですらないものも指す。たいてい、そういったものはすぐさま自分にとって「ああ、そうか!」と容易に入ってきてはくれないのだ。むしろ、何のことか分からなかったり、一見当たり前すぎて簡単に見過ごすものだったり、想像の中に入ってきた瞬間とてつもない嫌悪を催すものであったりもする。
あらゆる可能性を挙げてゆくこと、それは所謂ビュリダンのロバのような、行き先のない論理的思考とは異なる。そもそも、ビュリダンのロバの例えはあまりに極端ではある。これを論理的思考と言ってよいのかも分からない。しかし、これに似た光景は私も過去に目にしたことがある。それは一部の学生活動家によくみられる光景だった。「議論しようぜ!」の掛け声に、日本の内閣批判や国際問題、米軍基地問題から差別問題まで、語り合う。何か明確にしたいことがある訳でもなく延々と語り続ける彼らにとって、議論は終わることがない。どこに収束することもない。問題の水準は気まぐれに上がりもすれば下がりもする。表面的な問題かと思えば根本的な問題をぶちあげる。恣意的に、まるで語り合うことをやめないことが彼らの存在意義であるように、彼らは夜を徹して語り続ける。ひとり、そしてまたひとり夢の世界へと飛び立っていく。太陽も昇るかというときに、真っ赤に充血した目をして残り少ない者は辛うじて相手に反論を仕掛ける。「いやーだからそれってさー…」 バカなのか。何も理解し合えていないのか。相手に理解させる方法も知らなければ、理解する方法も知らないのか。自分の言いたいことを言っていれば世界が平和になるとでも思っているのか。正義感に溢れていれば、発言さえも正当化されるのか。
私が言っているのは、自己目的化した論理的思考のことではない。まず、自らから発せられた数々の考えは、挙げていくほどに自らの思考の外縁を素描していくことができると思っている。かけ離れた解釈が、思いもよらぬ根源的な欲望を同根としていることなど、よくある話だ。私の目から見て、もっとも妥当だと思われる道筋を見つけること。これを続けていく。苦しみにまみれているほど、その思考の果ては自らに深く根差しうる観点を持っていることだろう。自らが普段は立ち入らぬところさえにも足を踏み入れること。自らの分かるものを楽しんだところで、たかが知れている。つまらぬことだ。それならば、自ら楽しまず、苦しめ、と。
これが私の迷妄である。

また、その先にもたらされるのは達成することのカタルシスではない。より広範にわたって動くこと「も」できる、選択肢が広がるという意味での自由さ、そしてこの世に対する諦念であろう。真実など存在するはずもなく、我々は我々の迷妄の中で今だ生き続けているということへの痛烈な自覚だろう。それをどう捉えるかは、その人しだいではあるが。