違和感、価値観

違和感。「男子一生の仕事」「ロバの論理的思考」「主体性のなさ」「欲望としての行い」。


ここのところ、周囲の人々の感情的な言動に好ましい印象を抱くことがない。人の体の動きを見るのも好まない。特に朝方、次第に暑くなる日々、老若男女を問わず薄着になり、肢体により近いシルエットが服越しから見える。若い女性であれば自らの存在を主張するような動き。手や足腰を振り出して歩くその姿は、視界に入った瞬間に目をそむけたくなるほどのどぎつさを感じる。また壮年期の男性であればポロシャツで涼しげな格好のうえ、気を使うことのない無遠慮な焼けた肌と張り出した大きな腹。老人であれば、伸びず強張った背で、俯いて歩くその後ろ姿に汗がにじむ。突如として刺激臭を嗅がされたような気分。そう、昼食時にも女性から、訪問先の男性臭さが染み付いているのに気付き「あんた臭うよ」と喉元まで出かかる。
人々が、己の存在を主張していこうとする態度に何とも言えない違和感を感じるのだ。生理的なものにまで目くじらを立てているのだから世話ねえよって話なのだが。そんなに価値あるものなのか分からないが、なぜそこまで必死になって主張したり、感情的な表現を好んだりするのであろうか。なぜ自らが欲望に基づいた存在でしかない、と認められないのだろうか。
理系文系問わず、出自を問わず、自分自身が公正だと疑ってやまない人、公正なものの存在を信じている人はとても多い。
私たちが考えている「公正」など、誰かの欲望を元手として、その欲望の達成を目的として見出された「妥当な」基準でしかない。


そういう意味で、養老氏が挙げたと聞いたロバの論理的思考の話もまた、違和感を感じずにいられない。ビュリダンのロバの話。まったく同じ大きさの干し草の山の間にロバを連れていくと、ロバはどっちに行っていいか分からず、悩みに悩んで餓死してしまう、という。ここで論理的思考は、感情と切り離された機械的処理機能として捉えられている。この逸話は、感情を持つことの重要さを逆説的に唱えているようではある。
しかし、物事を考えること、望むこと、さまざまな行為の全てが感情、欲望を起点にしていることを知らねばならない、と感じる。養老氏の述べることは感情的ではないのか?否であろう。私にとっては科学的観点さえもイデオロギーに見える。何かを公正に観ずることなど不可能であることをまず知る必要がある。さて機械的処理機能は、本当に客観的だと言えるのか。それを満足に機能させうる方法論などあるのだろうか。もしかすると現在の科学的判断とは、決定的に何か見落としているが故に、機械的=徹底した論理と言えないのではないだろうか。


「主体性のなさ」「男子一生の仕事」この考え方、私にとっては噴飯ものでしかない。
たとえば、中年にもさしかかる世代の人々の一部が、内省的な態度をある種の決定論として捉えているようなもの。
あるいは、中学高校で経験した部活動、大学でのサークル活動、仕事場での社内結束や異業種交流、そのどれもが幼少期の砂場遊びのようなものであり、(それにもかかわらず)いまだ疑いなく “人生を謳歌している” 人々。
あるいは「生きがいを見つけることが大事だ」ということば。生きがいとやらがなければ生きていくことがそんなにアカンのか。見つけずとも、“死んだように”やりすごしていればいいではないか。
まるでこの世は可知であるべしと言わんばかりの態度。もちろん分からぬものには目を逸らす。何事も、分かりやすい形でないとダメなのか?