「困る」ということ

困る、ということ。関心を持ち、何らかの理解にいたろうとするもまるで方途が分からず、文字通り「途方に暮れる」。


これは一つの方法論として意識しておいても悪くないのではないか。個人的には、簡単に見出せる解決方法などほとんど何の役にも立たないと思っている(もちろん、特定のルールの枠内で問われたことであれば、すぐさま答えられるべきではあろうが)。


実生活の半分以上を、何が楽しくて抽象的なことばかり思いめぐらしているのか、そんな私にとって、見出された問いはすぐさま答えは出すものではない、という信念めいたものがどこかに根付いてしまっているのだ。どれほど知識や論理的判断にたけていたとしても、こればかりは何としてでも譲ってはならん。「分かりそうなこと」は、いまだ分かりそうにない。分からないことは、分かるはずがない。


しかし、説明をここでやめてしまうと「何もしないよりはするほうがマシだ」「おまえのはただの怠慢、逃げ腰だ」とよく言われる。それはそうだ。考えるのをやめろ、と言っているわけではない。むしろ、考え続けろ、と言っている。答えが出ないままにしておく、とは、「考えない」よりもむしろ「考え続ける」ことであり、答えを出してしまう、とは、「(考えたという)努力の結果」かもしれないが、考えを止めたことに他ならない。


それでもまだ反論は挙がるだろう。分かりきったことを「分からない」というのは、不誠実だし状況を混乱させて楽しんでいるのではないか?と。そうじゃないね。もちろん、私もじゅっぱひとからげ(なぜか変換されない)で「分からない」ことにしろと言うあたり相当いい加減だが。何と言うか、決定論者のような物言いはしなさんな、というセリフにこの話は尽きる。何でも分かったような物言いをする人は、私の周りには何人かいた。知識や論理的判断に長けていることを自負している人たちだった。論理的に判断すれば、分からないことはないと言わんばかりの果敢さを持っていた。彼らは、その勇み足で明白だと思われる以上のことをつい、喝破してしまうのだ。そしてあろうことか「常識だから」と付け加えることを忘れない方もいた。悲しいかな、そうやって理論武装しなければ自らの精神を守ることができないというのは、結果的に救いようのない弱さを露呈する。それで「愛される存在」になろうというんなら、どうぞお好きになさればいい。


繰り返して言えば、「分からない」ことは「分かる」ことよりもずっといい。それは開き直りであるかもしれないが、しかし一方で、自分が白旗を上げる機会の方が、勝利の雄叫びをあげるよりもずっと多いということを認めるということでもあるのだ。個人的には、大澤誉志幸の「そして僕は途方に暮れる」というような、あの立ち止まって、どうしようもなくなるような感じが、どうも自分の原動力となっているようにも思えるのだ。