身体について

ノートに書きつけたもの。

放恣であればいいと言うものでもない、初めより放恣を保証されているとき身心の使い方、在り方さえ分かろうとせずに発散するがごとく自らを顕そうとする。その駆り立てられた態度は息遣いでもあり、浅く息されるがゆえに息切れも早く訪れる。豊かに彩られると思っていた時間は、あぶくとなるのである。代わりに残されるのは疲労、徒労、生煮えの感。そうなることが予め想われるのならば、寧ろ為すことならず佇んでいる方がよほど増しであろう。自らの思いに於いて何事か起こりてあるがしかしそれを現すことが叶わない程に没入し、或いは身体の顕しに強い恐怖を抱くに至っているとき、佇んで居ざるを得ない。起こりてあるものが身を以って顕される、とは確かに精神病的な状態であると言えるのかもしれないが、それはいわば幸福な体験なのではないか。然し、いつであろうとこれを体験できる訳でもない。そもそも体験し難いことを体験と言っていること自体が不都合なのかもしれない。ともかく、それは身体的に随伴し、時に兆候となるものが必要である。眩暈、頭痛、緩慢な呼吸、胃の鈍い痛み、これらを伴って気付かれることがしばしばある。自ら表現し得ないが故に身体に現れているのかもしれないが兎も角、精神的なものと身体的なものは何がしかの連動があることはこれによって実感される。一病息災の謂いもまたこれが故に賛同し得る。

改めて読むと、よく分からない。