言葉にならない感情

この人は、私が言葉にならない嫌な感情を喉の奥に潜ませていることを知っていて、しかしもうひとりの家族のよりよい生活のために、それに気づいていることなどおくびにも出さず明るい声で私とコミュニケーションを取っているに違いない。私はどれだけこの人を裏切り続け、自らの妄想の中で不遇をかこち続けてゆくのだろうか。自らを鎖(とざ)しこめているのが他ならぬ自分自身だということに気づきもせず、なにやら「言葉にならぬ感情」なるものに気づいたふりをしながら、またその感情に飲み込まれていく。そして太陽は中天にまで昇る。
そのころには、もう幾分か気が晴れているのが常なのだが、それが何故か考えたことはこれまでになかった。最近また内省しがちである理由は、すでにわかっている。ここ1ヶ月とそこら、とある方と毎週1度は立ち話をしているからだ。その方がいう直感の症状的かつ被操作的なはたらきを理解して気の利いたことを言おうと自らの感じるところをチューニングしようとしていたからだ。そう思っている。それから1ヶ月ほどして仕事が忙しくなり、気づくと感情の整理ができなくなっていることに気づいた。――いや、より精確にいえば、昔習った「自己開示」という技法で自らの感情をできるだけ率直にかつコミュニカティブなレベルで伝えようとして、結果的に感情がいつもより多くの場面で意識上に染み出してくるようになってきたのだ――このように書くと、その方と話していたことが原因であるかのように見えるが、実際のところ明確な因果関係などわかろうはずもない。ただ、そういった流れで兄弟とのあいだにヒビが入り、数年前に彼と久々に会って話していたときに奇しくも口にしたような「決裂」が、思ったよりも早くやってきたわけだ。あのときのやり取りがあまりにも受け入れがたく、私は携帯電話から一日も経たず履歴を消してしまった。恥ずべき言動とその顛末を、恥ずべき行為によって覆い隠してしまったのだ。これから何度でも思い出すことにしよう。こうやって今まで、自分にできるかぎり悪質なやり方で傷を付け、記憶に留めておこうという試みをしばしばやってきたことが記憶に蘇ってくる。その場において最善を尽くすことができず、剰え損失を被る仕儀となって初めて次善のパフォーマンスを達成するなど、誰ものぞみはしないことなのに。それは単なる自己満足でしかない。この出来事は極めて私的な事柄に過ぎず、伝えていくこともないのだから。
こういう体験を言葉にしたいと思うときがたまにある。誰も望みはしない、そして誰もが感じているであろう、つまり益体もない体験を、どうにかして傷を作るための装置にしようと思うときがある。言葉を連ねること、私にはそれしかできない。「文字を綴る」でもなく、「文章を書く」でもない。ただただ譫言を連ね続けよう、と。それは私自身の罪を私が忘れないためでもあり、私が人の形を保つためのあがきなのかもしれない。ろくに言葉の使い方を学びもしなかった屑のような生き腐れが、ほかにできることなど何があろうか。近頃の世相によく似合った思いではないか。もはや私の晩年は目に見えている。