『桐島』感想

桐島、部活やめるってよ』を鑑賞。ここにも上手く言うことのできない体験をしてしまった。私の感情の水位があがるのに合わせて、この映画の印象は私の中で上下する。多くの映画の場合、特にこれというシーンが強いインパクトで思い出されるのに対し、この映画はそれがない。どのシーンも印象的、とも言える。少しずつ繋ぎ止められた出来事が、日常の折に触れて、いたるところで思い出される。生活の随所に『桐島〜』を思い出す。俳優たちの魅力も、映画自体の面白さも申し分ない。だがこの映画のような体験は、ついぞなかった。たとえば鑑賞後の衝撃の強さで比べれば『嫌われ松子の一生』にも似ているだろうが、地面に水が染み込むようでありながら、その“映画”としての原型が記憶に残るようなことは他の映画にはなかった。
これをいかに語るか――いかようにも語るすべはないのだろう。私は以前『切りとれ、あの祈る手を』を読んだ際に、語るすべを持たない私は全く別のことを語るしか手立てはないといった。それは私自身の不理解だけが原因なのではない。理解とは本来不可能なものなのであり、他者の語った言葉を自らの言葉でまったく同じように語ることなど無理なのだから。もっとも下らない評論とは、自分の知っている知識で他者をたった一つの意味だけで説明し、すべてを理解した気になっているような文章だ。私はこんなにも理解していて、あまつさえ作者よりも作者を理解している私には、批判するだけの能力と権利がある、とでも思っているのだろう。これは能力の有無が問題なのではない、と改めて言いたい。他者を完全に理解することなど不可能なのだ。
そこに映し出された光景をとらえるのは鑑賞者それぞれにゆだねられている。理解できないものに対しては――いや、理解できそうなものに対しても、あえて自分の抱いた印象を情報的にもっとも価値が高いものとして扱ってみることで、「体験」がベースとなり、はじめて接近することがいくらか可能になるのではないか。私はそう思っている。