肉的なもの、象徴的なもの

ハウルから。
肉的なものと象徴的なものが、理屈や筋を抜き去ったあとに残るのではないか、と思った。理屈とは意識の所産。明示的な一義を求めるもの。肉的なものと象徴的なものは、対して意識ではとらえがたいもの。多義的なもの。本来、意味という形をもたないもの。無意識的なもの。これが前面にせりあがるとき、意識で動くことに慣れきった私たちは、何とかして意味を見出そうとする。しかし、そこに映るのは一義ではおさまろうとしないものがほとんどである。それは童話の世界、夢の世界、イメージと肉の世界。一人ひとりが異なった見解を持つしかないその姿は、意識的な者たちには「象徴的なもの」として映る。本来、子供は意味など求めずにただ喜ぶのに、意識で見ることを覚えてしまった私たちには、理屈が通らないものは理解できず、つまらないものとしてしか映ることはない。

また、この視点からエヴァQをもう一度、一片を切り取ってみよう。カラフルで新しく、しかし荒廃した世界は私たちを置き去りにするとともに、呼び起こす何かを持っている。死の姿である。