到底あなたには追い付けないし、技法も蓄積も速度も腕力もない。それでも全力をもって臨めといわれ、破れかぶれでなけなしの第六感のようなものを使ってみたものの、なんだそれは、と言われた。そこから見えるものは何だ。それはどんな消息をたどるのか。言語化せよ、せめてAngeloにしてみせろ、と。絶望するしかなかった。私にはそれに翼があることすら知らなかった。当時の私としては、当然の帰結だったのかもしれない。


私は私なりにやるしかなかったが、もっとも致命的だったのは、息切れして動けなくなったときにすぐ、私が「私」というネグラを主張しだしたことなのかもしれない。当時、そのことが判る人たちは、そのような姿を、哀れみと怒りと、つま先ほどの同情をもって(くれていたのかどうか知らないが)見ていたのだろう。哀れなモグラよ、その目を潰してでもこちらへ駆けてこい、なぜならお前みずからが、せめてAngeloになりたいと思っていたのだから。今戻るな、お前の命は有限なのに、なぜ、どうして、そんなにあっさりと諦めてしまえるのか。


そういうふうに思って(いたのか分からないが)、彼らは私が姿を消すのを見送っていたのだろう。私は、いまでも昼間に夢を見る。いまなら知を知で洗う覚悟はできているだろうか。あの時叱咤を飛ばした者たちと一人ずつ刺し違えることが、できるだろうか。きっと私はAngeloにすらなれず、自ら羽をむしり続けるのかもしれない。そして、これから翼を生やす者たちに、骨だけの翼で飛びかたを教えようとするのかもしれない。哀れなことだ。初めから翼を持つ者は選ばれているのかもしれないのに。