引責、悪意、愚かさ。

自らの不明という非を衝き、その非への責任を私が負うべきでありながら、全くこれを為すことができていないと言い募り、なじり、責め立てるような行為――つまり、難癖、言いがかり、いちゃもん、濡れ衣というやつ――は、逃げ場がないほどに追い込まれるものであって…。ああ疲れる。そもそも自らが負うことのできない、負うことを知らない責任など、有責範囲さえも分からない。だからこそ、「私は知らない」「私には関係ない」と言い切ることができない。しかも、逃げようと後退するごとに相手はその難じ振りの酷さを極めるのだ。
これはおそらく、必ずしも問題解決が相手の目的ではないことが背景の一つにあるだろう。問題を解決したい、という単純な動機であれば、相手を責め立てることばかりが方法ではなくなるからだ。たとえばこちらが少しでも身を翻そうとした途端に相手の怒りが強まる、などということはよくある。それは、問題を解決「したい」のではなく、むしろ問題を解決「してほしい」という態度だとしてもいいだろう。解決「したい」という、基本的に独力で(主体的に――こんな言葉は使いたくないのだが――)事を済まそうとする態度は、相手が居ようが居まいがどうでもいい。必要に応じて相手が呼び出されるに過ぎない。相手は、オプショナルなものであり、不可欠ではない。しかし、解決「してほしい」という、基本的に他力本願で事を済まそうとする態度は、自分で何かしようなんて思っちゃいない。人が居なくては話も始まりはしない。ときに攻撃的なその態度は、私―問題ではなく、私―相手に焦点がある。どうなってるんだ、どうしてくれるんだ、ふざけるな、馬鹿にするな、責任を取れ、……こういう手合いは本当に疲れる。
そして、このような指摘は、当人には絶対に、もう絶対に伝わらない。彼らは言うのだ、だってお前が“悪い”んじゃないか、お前が取るべき責任をとっていないのが“いけない”んだ。まさに火に油を注ぐようなもので、まるで相手を焼きつくすような炎で、怒りが、恨みが、憎しみが噴出する。譲歩なんて絶対にありえない。私がこんなに被害をこうむっているのに、お前はぬくぬくと安住し、あまつさえ責任逃れする。私がこんなに苦しんでいるのに。私が、私こそが被害者だ。……そう、こういう手合いに、良いも悪いもないんだ、などと説くのは無駄だということが分かるだろう。問題が発生したとき、私はすでに被害者であり、責める相手は加害者なのだ。
想像力の欠如ともいう。主体のなさとも言われる。依存的ともいう。もうだいたい分かるだろう。概念ばかりで事を理解しようとして、その概念の意味さえも問わない者。彼らは、形がないことを極度に恐れる。自らが拠って立つものの不明確さを非常に不安がる。彼らは、自分が理解できないことは理解しようとしない。この世界は私だけが正しいと必死で信じて、私と・私が信じたもの以外は全て間違っていると思いこむ。彼らにとって、世界は敵意に満ちている。だから、多くの場合において攻撃の手を緩めることなど許されはしない。こんなに苦しいこともないのに、手を挙げるほどに世界は自分への敵意を強めるというのに。憎しみは、応酬・あるいは亡霊として還ってくるのに。

私は、ここである種の愚かさとある種の人格の偏りについて、繋ぎ・混同するように書いている。何年経っても、こういう手合い(としか呼ぶ気がしないのだ)への強い恐れと軽蔑の念、そして憎しみがぬぐえない。そう、ほとんど皆がそうなのだ、とさえ言いたくなる。みなが感情を剥き出しにして、本能に振り回されている限り、現状は何も変わることがない。つまり、皆が敵なのかもしれない。つまり、私こそがこの「ある種の愚かさとある種の人格の偏り」を持つ者なのかもしれない。
さてここに、いくつかの詭弁がある。この問題の背景と、論理的な解決の道筋を考えられる限り挙げよ「う」。