窒息、高所、剽窃。

私が、いままでに何を「置き去り」にしてきたか。
このことは良く考えられねばならないだろう。

つまり、あるレベルでの分析のためには一つ上のレベルが必要だし、またその上のレベルについても分析が必要だと考えることでとり得る責任というのは、そこで設定されている階層的な秩序に対する責任でしかないわけです。それは、結局のところ、きわめて共同体的な責任でしかなく、ほかの知識人に対して恥ずかしくないといった程度のことでしょう。それは、共同体が容認するイメージの翻訳とそれを可能にするものをはっきりとさせておきたいというだけのことで、世の中の方じゃ、そんな責任にまったく無関心だし、そもそもそうした責任のとり方は人生にとって意味がない。生きるってことは、階層的な秩序の上下関係とは無縁のものだし、リゾームじゃないけど、複雑という以上のでたらめさで入り組んだ空間を体験することでしょう。だから、その種の責任は人生を抑圧するものでしかない。(蓮實重彦闘争のエチカ』)

逃げ、逃げ続けてきたのは、そこに高邁な行為への息苦しさがあったからではないのか。自らができないことを、やれるような顔してきたからではないのか。

それぞれ自分の器量を超えた部分は、いかにも、ないも同然である。(中井久夫ヴァレリーと私」)