「神的批評」読前

何をもって時代錯誤だというのか。それは、現今の問題群に対して提示する回答の1つとして不適格なのか。
「神的批評」の評価は二分される。1つは全体にゆきわたる著者の意気込み、熱っぽさを肯定的に受け止めるものとして、もう1つは「われわれは〜すべき/ではない」という論調を時代錯誤だと否定的に受け止めるものとして。アマゾンで確認したレビューからだとこのようになる。おそらく、このいずれの評価をも傾聴すべき価値を持つだろう。


あるレビュアーは、“タイトルのものものしさ”と表現した。なるほど、たしかにこの時世に神の名を冠する書物をものするなど、それは何かしら不穏な印象さえも窺わせる。あるいは「僕は、『バガボンド』や『ジョジョの奇妙な冒険』や『HUNTER×HUNTER』や「ニコニコ動画」や「2ちゃんねる」よりも面白い批評を、本気で目指しています」という著者のブログより引用された一文。この方が指摘しているように、彼の「やや気負い気味な『批評(家)宣言』」がなされている、というのは同意できる。そう、これは作者大澤信亮氏の宣言だという点からまず評価していったほうがよいようである。それは何よりも誰よりも、まず私にとって選ばれるべき視点だ、ということも忘れてはならない。


門外漢として。初学者として。一般の読者として。彼を知らぬ者として。加えて、著書の密度を、ありていに言えば「このひとはどのようにしてこれを書いているのか」を知ろうとしているものとして。ただ、“私は基本的に何も語りえない”というスタンスでしか、私は人の意見に向かうことができない。基本的に無力であること。しかし、これらの私の姿勢は単なる逃げ口上、責任回避でもある。一見その人に向き合っているようでありながら、その実いかんともしがたい痴愚を装ってあらゆる言葉を避けようとするのだから。言葉には責任が伴うだろう……他者に向けて発する言葉はどのようなものであれ、他者との関係が生まれる以上、自らの意思表明を行うことになる。もちろん、痴愚を装ったからといって責任は回避され得るものではない。だからといって何かが出来るわけでもないのにいっぱしの何者かを気取っていいというわけでもない。ここにおいて、省みられるべきは自らの責任回避の態度と同時に、自らを過大評価する態度であり、その上で選び取られるべきは著書と著者の意を限りなく汲まんとする態度、そして私と人との限りない差異と断絶を自覚する態度ではないだろうか。


大澤氏の作品を、私は「熱持つ作品」として期待している。まずは、それだけ。