観念と活動と

「苦手」とされること。”慎重にものを言う、君が苦手だ”という風に言われた。自分にとって、答えが容易に得られると想定された問いは削り落とし、さらに問いを突き詰め、抽象的な問いのみを問うようにしていた。しかしこれを人に話した時、「観念的な物言いをすることが、活動的なその人にとって嫌がる原因かもしれない」と言われた。苦手だ、とおっしゃった方からは先日「本当にわからないと思っていることを質問している」と評された。この態度は、その時本当に評価されたのだろうか。
この問い方とは、私にとって思考を丹念に検討するために不可欠なことだと思っていた。観念を観念として突き詰めなければ、この思考は答えに近づくことさえできない。しかし、「考えてばかりで行動に移さない」ということにもつながる。私には決定的に欠けているものがあるのだろうか。あの時の妙に緊張がかった場は、いったい何を感じ取ったのだろうか。
これを自らのこととして、受け止めることができるか。
そのとき、テクストを読んでいて、散りばめられている言葉の一つ一つがほとんど理解できなくなる感覚があったのだ。自分の理解力がひどく鈍っているから、という可能性も十分あるのだが。しかし、一つ一つの言葉や単語は、それ自体は私の知っている言葉であり、それだけならば理解も叶う。しかし、全体からこれを眺めると、途端にそれぞれは反目し、意味を成さぬように、私の頭の中でごろごろと飲み下しがたい石くれのように転がっているのだった。
これをなんといえばよいのか。理解できない。この言葉を理解できない。理解できないということもまた理解できない。しかしかろうじて、自分の中に残ってる自らの価値観をもとに一つ一つを照らし出し、何とか理解しようと試みる。このとき、この文章は、すでに私の世界には居ないものだということが実感として抱かれたのだ。
最近、このような体験が次第に多くなってきているような気がしてならない。単語はわかるのに、全体ではわからない、ということ。もう、自分の能力が思っている以上に衰えているのでは、と焦りながら、このいや増す不明に、何とかして取っ掛かりを探している。そんなときに、今回言われた言葉は、人に話した時に、自らの欠点の露呈として提示されたのだった。観念的な物言いを好む私は、何かとり逃しているのではないだろうか。