宗教の台頭

宗教の台頭もまた頷ける事象であるか。


ニーズと技術は時代を追って細分化を続ける。しかし全てのニーズに応え得る技術が出揃うことはない。現今の研究において、メタ的観点から事象を捉え直す作業が行われていることからもこれは明白であろう。すなわち、“メタ”とは前提とされている概念そのものを問い直す観点であり、現在の概念や価値観に問題が生じなければ発生しなかった観点であるからである。従来の方法論で全ての事象に対応が可能であったならば、「そもそも」という物言いがなされることはなかっただろう…今後も“メタ”としての疑義提出が止むことはありえない。人間によって構築された知とは、やはり人間の手によってしか生み出されることのなかったものである。


人間こそが全生命の中で唯一の知性であり、全能者に等しいと保証されたことは一度もない。もし全能であったならば、全能者たる神など想像しなかっただろう。この神を過去の遺物として切り捨てるほど、人間は十分に代替するものを現在持っている訳でもない。科学技術を代替しうる筆頭とする者もあろうが、この発展など、所詮構築された知の一形態に過ぎない。もっともこのことに無自覚的なのは、専門家というよりもむしろ、ただ科学の「恩恵」を享受する非専門家ではないか。自らの限界、不完全性を自覚するよう促す声は、既に何世紀も前から発せられている。


不完全たる我々。これを克服するために、より完全であることを目指して細分化が続けられ、メタ的観点もまた投げかけられ続ける。これに終わりを告げるため、宗教の必要が叫ばれたのではないかとも考えることができる。根源的なレヴェルからのアプローチを行い、諸問題を包括的に捉え直し、一挙に解決に導く可能性をはらんでいるのが、宗教、というわけである。例えば霊性という基本的に不可知で非言語的なものを足場に、そして自らの要件として、さらに向かうべき方向として、宗教は歩みを行う。


「いまこそ心の危機が叫ばれている時代だ」と言えば、宗教の生存理由を述べるに十分なのだろう。あるいは、ニーズに応え続けるから、新たな問題が起きるのだという声もあろう。爾来、今から見れば未発達であった諸技術のもとでは、問題は当時の方法論によって解決可能だと考えられており、これによってしか解決されえなかった。問題を一挙に解決するためには、今一度事象を単純にとらえ直し、その中で語ることが求められている、と。
しかし、ことはそう単純ではない。一度動いてしまったものを元に戻すことが可能であるはずがない。時代の進みを成長に譬えれば理解も容易だろう。赤子に戻ることなど、できようはずがない。


包括的に諸問題を解決へと導く方法論は、もちろん歓迎されるべきものであろう。しかし、一方で包括的な再構成では、これまで問題とされてきた事柄を取りこぼしてしまう可能性がある。また、培われてきた知性を否定することもできない。だからこそ、たとえ宗教に「戻る」ことがあろうとも、それは単に「後退」を意味するのではないと十分に自覚すべきである。そして、これからの道行きはより慎重に行わねばならない。


私は預言者でも、未来を透徹する賢者でもない。そのため、これから起こることをつぶさに見つつ、自身にも他者にも批判的であり続け、そして新たに打ち立てられた観点や方法さえも既存のものとして問い続ける必要がある。おそらく、今後、各個が主体的に協働する姿が求められることだろう。しかしこれさえも、もう何年も前に言われたことなのだ…