読み手への意識

読み手を意識しない、ということ。現在では、信じがたい背理ではないか。しかし、それが存在しうるというなら、言葉は極私的なかたちをもう少し追求していいのかもしれない。しかし、それほど個人の中に言いたいことがあるのか。「ブログに何を書けばいいのか分からない」という人が多いのではないか。もっとも、保坂和志の言を参考にすれば、映画を見ない人に映画を見せようとするとつまらない映画が数多くできてしまう。水準など様々ではあるが、そういう凡庸さ、あるいは凡庸さにあるのではという感覚から抜けたとしてもなお、自らが目新しいことを言っている理由にはならない。くだくだと好きなことを言っていれば、居酒屋で独り言ともつかぬクダ巻きを店の人に言い続けているような中年男の言い草と何も変わらなくなってしまうのではないか。自らを疑うという、目が覚めて決して眠れぬ恐ろしさに叩きこまれる感覚を次第に失ってしまうのではないか。それでは、いったいどうやってその道に到り得るのか。凡庸さの呪いから抜け出ることができるのか。
抽象的な議論は、その目新しさの乏しさゆえに、同じところを永劫に回り続ける。