はじまりかもしれないもの

予定の時刻までまだ余裕があるのを理由に、コタツに体を差し込んで目を瞑っていた。夢を見た。バイクで見知った道を走っている。運良く信号も渋滞もなく、時速6、70km位は出ていただろうか。車の脇をすり抜け、空いた道路を延々と走っていく。不思議なくらいに私はずっと走っていた。このままずっと走っていけそうで、恍惚に目まいが伴う。今の感覚を失いそうになる。こんな感覚を味わってしまったら、もう私は戻ることができない……!!その瞬間、前方の車が急にブレーキをかけて、私はバイクごと、体ごとぶつかって砕け散り、原形を喪う。その瞬間、私は名を喪うことの恐ろしさを感じた。名前をもたない、いや、持つことのできない世界で、私は途方もなく空虚なものを抱え込み、空虚な場に放り込まれる。しばらく、目を覚ましても恐ろしさが抜けず、口を開けたままだった。灰色の粒子がむら満ちた空間。そして私は抑えていた尿意を我慢できず、起き上がって便所に向かった。

なんという、通俗の極みだろうか。言葉にすることで私が見たものは俗悪で浅はかな形でしか現れない。私が考えていたことがそもそも俗悪・稚拙だったのだろうか。それとも、私が表現する能力を持たないのか。しばらく動悸は収まらなかった。心理学において、夢はその内容を語るだけでなく、夢見者の感じたことが重要になると聞く。だからという訳ではないが、ただ、これが私のはじめとなるようにも感じる。人は何か思いもよらぬ者に出くわしたとき、感情表現をもってそれを迎える。しかし感情表現は、その先に現れる言葉さえも失わせる。あるいは夢を対象、形ある体験として認めるとき、その感興は一瞬にして即物的なものへと化す。どうしても、形にならぬものは形にしてしまいたくなる。そうすることで、体験はその場限りのものとなり、無形は有形に座を譲り、有形はあたかも初めから存在していたかのように鎮座する。一瞬の感興は気の迷いとなる。この後私は今朝購入したル・クレジオの『物質的恍惚』を読みはじめる。便意を催して起き上がろうとするのだが、特定の対象を意識すると感覚的無形は姿を消す。その先に感じるであろう状況を想像してそれを即座に忘れ、ゆっくりと立ち上がり、この感覚を対象として意識せず、目の前のものも意識せず、苦肉の策ながらぎゅっと目を瞑ってそれを頼りに歩きだす(何のことはない、単に便意を催しているだけのことを延々と語っているのだ。何という誇大主義者)。
私は、ここをはじめとする。どれほど通俗的で俗悪に満ちようとも、これを手放さないようにしよう。例えば、聖書を挙げて神父が言う。「何十年も聖書を読んでいるけれど、私は毎日新しい発見をします」なぜかこれが私の記憶に残っている。これに承服できず、わずかに首をかしげたまま私はこの言葉を思い出す。では、例えば私の片手にある『物質的恍惚』もまた、聖書として使うこともできるのではないか?もちろん反論はいくらでもできる。しかしそういうことではないのだ。聖書の特権性や多層性を逆説的に論証させるためにこんなことを言っているのではない。ただ手元にある、どのような本であれそれが聖書になりうるという極めてニヒリスティックな視点を用い、この領野を限りなく広げていこうとしているのだ。夢想ではなく、目の前に広がるものものに心根脱落するほどの絶望を、即物的なあなたに与えようとあがいているのだ。論理的な文章など知らない。ただ、ここをはじめとして書こうとしている。