こんなことしていたってしょうがない。やっていることになんて意味がない。自分のことを振り返るのだって、日々を繰り返して生きているのだって、「なぜ」「どうして」という疑問が表に裏につきまとっている。息をすることだって、やらなければいけないことをしたって、節制を心がけるのにしたって、むなしさから離れることはできない。
「意味なんてあるわけない」、彼はそう言った。そんなの分かってる。もう、分かっているはずだ。それなのに、どこかで救いを求めてしまっている。やっていることがなんなのか、何故やっているのか。ここに答えなんてないのだって、もう知っているはずだ。知識や、行動や、発言や、態度や、素振りだって、そして、こうやって自己開示にも似たようなことを書いていれば何かに辿りつけるんじゃないか、という浅ましい思いだって、私には救い難い。

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彼女は、もう知っているのだ。だから、一本大きな論文を書けばいい、と言ったのだ。自分が何をしたいのかを嗅ぎ取って、そのようなことを言ったのだろう。それは確かに、私の想いではある。でも、そこに辿りつくのだって、相当の労力と努力を要するものだということも彼女は知っているのだろう。私はそれだけの労力を注ぎ込むことができるのか。たぶん、できない。「まだ」できない、という負け惜しみの言葉を吐くのさえも恥ずかしい。私には、続けることが苦手だ。どこかで、一瞬にしてこの世界が変わり、思考・意識を絶した体験に満ち満ちる時が来ると思っている。他力本願という言葉の一端にも示されているように、その弊害、人間の矮小で依存的な態度にとらわれ、何かをしようというよりも何かしてもらおうという気持ちでいる。それが、私に続けることをくじかせている。
そして、「それで?」だ。このような想いが私を占めているのが分かって、認めたところで、何になると言うのか。「じゃあこれからはやるだけだ」とでも言うつもりか?私は誘導尋問になど引っかからない。まるでカウンセラーというものが、自らの思考の内でしか他者を理解できないはずなのに、「その人の主体性、可能性を信じて」とうそぶいて、その人の語った言葉や態度を自分の理解の範疇でしか理解しようとせず、誘導させようとするような言葉など、もう聞きあきたのだ。予定調和を分かって誰が従うというのか?

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こうやって書いているのだって、浅ましい。自らを評価することさえも例外ではない。