先日の「周囲の優秀な人」について、思い出すことがいくつかあった。
少ない例から益体もない見せかけの一般性を帰納するようなさまだが、どうも、勝気で、努力家で、理系分野にいた者は人生観ともいえるようなスケールで自分の価値観を確固たるものにせんと日々邁進しているように思える。
いや別にそれでも全然構わないし、そういう方法や方向にそっぽを向いてグチグチと言い続ける私にとっては、刺激的な人物たちではあるのだけど、彼らの言葉を思い出すと、ときどき腑に落ちなくなる瞬間がある。彼らはもはや、より抽象的な部分を問うことに見切りをつけてしまったのだろうか?努力に努力を重ねて、自分の持ち物を磨き込めること、そして自分自身の人生を思うように生きること。それが自分のゆく道だと言いたげなのだ。うらやましくさえもある。そんなにエネルギーに満ち満ちていられるのだから。彼らは迷うとても、いわゆる“栄光の道に付きものの挫折”“学問に王道なし”など、より高みに行くための足がかりとして「利用」していくのだろう。
彼らに、“答えを出さないでおくこと”という選択肢はないのだろうか。明晰な思考の陥穽ともいえそうな、因果への志向/嗜好を彼らは選んでいるように思えてくる。あるいは、「行動こそ道なり」ということなのだろうか。いついかなるときにも行動すべきであり、立ち止まって考えるのではなく、行動しながら考えることが常にベターだと?
語弊と差し支えを分かっててなお言えば、彼らの弱点は稚拙な精神論にあるのかもしれない。20年近く前に大事件を起こした新興宗教の信者の多くは高学歴だったとも言う。もちろん、高学歴の理系でなければ高邁な精神論を持っていると言うわけではない。皆初めは、糞垂れなのだから。我が道に誤りなし、と思い始めた瞬間から――それは「努力」「謙譲」という美徳の御旗を掲げたとしてもだ――稚拙さは諸見えになるのかもしれない。