迷い

およそ理解しえないものに対する手段として、言葉がある。
そのように断言するしかない、と思うことがあるのは、単なる逃避だと言ってよいのだろうか。そうだ、周囲の優秀な若人たちのように、言葉を発することよりも優先して計画的な展望と達成のための努力を講じることを重んじるのならば、この、言葉に対する粘着的な態度は「行動しないための言い訳」にしか過ぎない。本当に、かつて私のまわりには優秀な人々が多く、なかでも社会人として活躍できる者たちは、何事かを行う(成す、ではない。)ことにかけて卓越した分析力と行動力があった。彼らに交じれば、私は愚鈍で、矮小で、臆病でいることを痛感する。それこそ以前のように、過度に感情的になって委縮することも無くなったが、それでもやはり「私は彼らよりも劣っている。何かは分からないが、確かに何かが劣っている」と痛感する。なぜ、そのように強い足取りで歩んでいくことができるのか。なぜ、それほどに透徹した目を持ち、軽やかに、確かに足を進めることができるのか。前途洋洋、という表現がふさわしい彼らと比べて、私には何かが欠けている。それは、その一人が言うように「努力」なのだろうか。
見方によれば、私は別の仕方で秀でているのかもしれないし、別の仕方で努力しているのかもしれない。人と異なる視点をもち、異なる歩みを行っているのかもしれない。個性的な「わたし」とやらの発見と肯定は、このような見方でカタが付くだろう。そうやって、心やさしい忠告者は助言してくれるだろう。だが、それでは飛躍しすぎているのだ。私のもつ見方を、およそ暴力的に正当化しているにすぎず、問題への直視をさきおくりしてしまっているのだ。
しかし、もう一度注意しておきたいのだが、それでも私は歩みを止めてしまってよいとはならないのだ。「いいんだよ」という慰撫の言葉さえも振り棄てて、どうすればよいのかと考えねばならない。
彼らほどに透徹した目を持つことができないのであれば、せめてそれに近付く努力を、ということになる。


さんざん、自らの煮え切らなさには歯噛みしてきた。一般的な批判も、精神分析的な切り込みも、いやというほど聞かされてきた。
いま、私に足りないのは「努力」だということにして、多くの断絶をつなげるために諸力を傾注することにしよう。


初めの一文に戻ろう。なぜなのか、なんなのか、と考えるとき、傷を抉って喘ぐ以外に私の取る方法は、本を読み進めることとなってきている。逃避とでもなんとでもいうがいい。今夜読んでいる合田正人の『レヴィナスを読む』では、内田樹とは異なる空気を感じ取る。逼塞した状況で考えを考え続けること。そこに禁欲的な静けさを続けて語り続けている。ここで私が思いいたるのは、言葉とは、彫琢のための道具なのだ、と。形をもたぬ道具。目標のない彫琢。自分が対象となる訳でもない、自分の考えている場所から見える世界を、より多くの批判に堪えうるような形へと彫琢していくこと。もしかすると、いま彫琢しているのは木彫りの観音ではなく、乾いた砂の塊かもしれない。それでも、変化の兆候を待ちながら、削りだしていく。このような細かい作業が、たしかに意義のあることと誰も言わない。言えないのかもしれないし、そもそも言ってもくれやしない。「遊びをせんとや生まれけむ」とおおらかに言うこともできず、煩悶と、半分もかなわぬ没入を繰り返す。
もう、わからない。立ち尽くしてしまいたい。しかし、それだけでは納得もゆかない。何者でもないことを、結果論のように言ってもならない。でも、いくら考えても、この曇った眼球は見通してくれやしないのだ。だから、目がつぶれるまで、倒れ込むまで、酷使するしかないのではないか、という結論へ向かうことになる。たとえばレヴィナスル・クレジオを大洋に喩えて泳ぎにむかってもよいだろう。おそらく、私は泳ぎ飽きるだろう。もちろん、泳ぐさ。泳がないことの言い訳ではない。ただ、泳いだところで何になるのか、という答えには、たどり着く方向さえも見えないのだ。誰も答えてはくれない。何者かになる、という逆算では、あまりにも乱暴すぎて、どうにかするという呟きでは、あまりにも心許なさすぎる。
「男子一生の仕事」あるいは「生きているからこそ」、これらでは説得力がない。「楽しめばいい」さえも。


知人の「お前なんで生きてんの」という問いには、「こっちが教えてほしいくらいだよ」と答えるしかない。決まって「じゃあ死ねよ」と言われるのだが。