期待、義憤、批判

自分のスタンスとやらを明確にしてみよう。
一つに、周囲への、とくに対人関係では期待など感情的なかかわりが希薄である。そうしようと思って、もう結構な時間がたったものだ。どのような親しい関係であろうと、相手に期待することは少ない。ここを取り上げて、本当に親しい関係を結んだことがないからでは?と指摘もされようが、結論するには早い。同時に、相手に期待されたいとも思わない。期待されたことを「やってあげた」としても、それはやはり自分の欲求を、相手を手段にして満たしているように感じられ、その行く先のなさに辟易してしまう。
知人の男女は、ギブアンドテイクを基本としているらしい。いかにも合理的な方法ではあるが、それは与えることと、与えられることが成立しなければ、関係を見直さねばならないという致命的なもろさをも孕んでいるだろう。だからといって、甲斐甲斐しく貞淑さを備えた者がよいかというと――それで仕えている方がそれ以上なにも求めないのであればさほど問題でもないのだろうけど――自分自身が満足するために、私は私の望むことをしている、いわゆる自己実現をしている、というどうしようもないおためごかしで問題が有耶無耶になっていることもあろう。
ここでは何がまずいのだろう。端的には、自意識過剰であることがまずいのだと思う。自分のために何かをすることが、何よりも自分にとって良いことだと考える人は多かろう。よく聞く話だ。しかし、このごろどうもしっくりこない。合理的思考や、個人主義とは、何か重大なことを見ないようにするための体のいい方便ではないかと思われてならん。*1
思うに、「批判」は基本的に成立しないのではないだろうか。「義憤」などが個人的感情にしばしば裏付けされるように。個人が一般に資することなど、そもそも成立しない。不特定多数の集まりである社会に比肩しうる意味価値など、個人にはあるわけがなかろう。

*1:青臭い。こんなクダを巻いている自分に死ねと言いたい。死ね。