苦界と、罪業

思い立つたびに書き記すがよい。思い浮かぶたびに書き記すがよい。また答え得ぬときに黙した問いを書き記すがよい。
のちに、私は私の書き留めたことに向かって、応えるだろう。答えは得られぬものでもある。そのために問いへの答えは完全なものとならず、それゆえに繰り返し応えることになるだろう。


自らの迷いは何処にあるか。まず、世の教えを守ること、世の決まりを守ること、いずれを選べばよいのか。
また、永く此処に在ること、それは続けることのそのものであるが、私はその永きに耐え得ざるが故に、迷っているのか。
また、世の教えや、世の決まりを熟知するために、私は能うべき力を持ち合わせていないが故に、迷ってもいる。
教えや規則を粛々と守り、その奥に秘めたる意図を読み解くことも、また、たびたびの疎かさによって守ることさえも叶わない。
どのようにすれば、自ら道を知り、守り、我がものとすることができるのだろうか。


私は己が不完全であり、不完全であること守り切ることもできず、ただ、日々過ちを積み重ねている。汚辱を人や自らに浴びせることになるのが分かっているのに此処にいまだ在り続けることに、酷い苦しみを覚える。どのようにすればよいのか。度に問われるにも拘わらず、私は、罪とも愚昧ともとれる行いを繰り返している。


いったい、どのようにすればよいのか。答えは得られることがない。答えを得られず、只だ行うこともできない。いかなる書を読んでも、私は迷う。彼の書いたことは彼のみのことに過ぎず、必ず異なる応えが那辺にやある。私が私の答えをそこに見出すことはない。何かしらの示唆を見出したとしても、それが私の為になるかも分からず、私の為になったとしても、たった一人の限りある者だけの為にしか有り得ぬことを知ったところで、それは単なる思い違いでしかないかもしれない。
また、私は煩悩を絶つこともできない。いかなることも私に触れることがあれば、迷いが起こる。
また、私はいかな教えを賜ったとしても、この魯鈍ゆえに忘れてしまう。
また、どのような教えや答えがあったとしても、私はその愚昧によって見出すことができない。


再び誤ることのないように、私はその度に能う限り自らを厳しく罰した。
また、答えを見出すために、私は見えるもの以外のものを見ようとした。
また、貴重な教えを手放すことのないように、日々繰り返して唱えた。
また、新たなことにも手を正しく向けられるように、あらゆる答えを備えようとした。
そして、再び苦しまぬように、束の間の安逸に奔らぬように、この世を苦界と見なして住まうこととした。
それでもなお、私は何も得られないのだ。忘れ、過ち、盲い、怯え、疎かにするがため、また私の性根がそうであるがため、何も得られることはない。迷いとは、そのものが明るさのない状態を言い、それは無明と呼ばれる。


私は時にあくびをし、足音を大きく立て、目を異様に見開き、眉根に皺寄せ、溜息を吐く。そのどれもが私の罪深さを助長するように思われてならない。何かをする、ということはそれ以外の何かを蔑ろにする、ということである。周りの者に自らの行為が知れる、というのは傲慢の所産である。今このように息をしていることも、息をせぬことも、自らがここにいるという剰余による害である。「どのようにもならない」と結論が導かれるしかなくなるとき、私は立ち竦むしかなくなる。途方に暮れるしかなくなる。*1

*1:特定の宗派に属していると思ってもらいたくはないが、本日読んだのは、植木雅俊氏の『梵漢和対照・現代語訳「維摩経」』であった。折に触れての落書き。