「価値・目的」に毒づく

「無限に中くらいのもの」、ル・クレジオは『物質的恍惚』にこのようなタイトルを付している。
その昔、同級生に「終わっている。というか始まってもいない」と言われたことがあるが、それにも近いのだろうか。いや、「望まずして何故産んだ」と母を怨む、未生怨という仏教用語でも、ない。佐々木中は「何も終わらない、何も」と言ったが。


どうでもいいが、この羅列というやつは本当にうんざりさせられる。自分でやっておいて言うなよ。ただ傍証を繰り返したところで、基本的には理解が介在しない。知識ともいえない記憶の脇にこびりついた皮相なものを引っ張りだしては、まるで博識であることを誇るためだけに羅列が行われる。自己嫌悪がセットになってやってくる。そば屋でそば湯が出てくるくらいお決まりなのに、なぜやるのか。
どれほどの知識があろうとも、より広い視点から異なる理解を引きだすことがなければ、知識は無に等しい*1。ゴミが部屋を埋め尽くすように、そこには充実感とは程遠い、渇望や不全の思いが鬱積していくだけだろう。形になった言葉、それ自体には何のありがたみもなかろう。新しい知識、マニアックな情報、学問的な術語、それをどれほど仕入れたところで何が満たされるのか。人はそれを「虚栄」と呼ぶだろう。
ここで、人の言葉でも引用すれば“価値”とやらも上がり、人の関心も高まるのだろうか。

漫画やゲームや音楽などの狭隘なフレームの中にあふれるばかりにトリヴィアルな知識を詰め込むことに情熱を傾ける若い人をときどき見かける。彼らが同一ジャンルの情報の量的増大と緻密化以外に知的成長の様態がありうることに想像が及ばないのは、「師」に出会うことができずに生きて来たことの痛々しい結果である。
レヴィナスと愛の現象学』(2001、内田樹せりか書房

よく考えてみよう。羅列、引用、傍証、これらの言葉は同一の意味を持つわけではない。羅列は「連ね並べること。また、連なり並ぶこと」であり、引用は「古人の言や他人の文章、また他人の説や事例などを自分の文章の中に引いて説明に用いること」とある。傍証は「間接的な証拠。直接の証拠とはならないが、その証明を補強するのに役立つ証拠」だ。引用や傍証という語はけだし目的的だ。目的があるからといって「羅列」よりも良いわけでは、けっしてない。引用や傍証も羅列されることもある。この、目的的であるということは、いとも簡単に陥りやすいものだとは思わないか。
「役立つ」こと、実人生にみのりあること、人の関心を引くこと、たったそれだけのために、たとえば自分の声を用い、人に何かを伝えようとする。ネットにおいて、不特定多数の誰かに自分を見てもらいたいという目的のためにブログが書かれるとすれば、それは最近よく使われる「承認欲求」が結果的に満たされるだけのことである。周りの気になる娘たちの注目の的になりたいがために、雑学を仕込む。たったそれだけのために。
彼らはこの世がむなしいことを知っているのだろう。空虚の中で踊ると決めたから、彼らは踊っているのだろう。うまいもの食って、派手に騒いで、意中の相手と蜜月を過ごす。それがむなしいことと知っていながら、彼らはけっして振り返ろうとしない。振り返ることなど、バカのやることだからだ。自分の苦しい部分、見たくない部分に目を向けることなど、その時の快楽をモノにする者にとっては彼らの目的と正反対をゆく行為だからだ。彼らの渇望する姿に、私は耐えられない。そのようにして喉を潤そうとする姿に、自分のあさましさを映し見る。


私はそれでもなお、このように、受け取り手の受け取らぬ言葉を延々と吐き出し続ける。そして自家中毒を起こす。


こうやって繰り返して言うのも、また空虚の中で踊ることと変わりはないのだろう。自らのやっていることが意味あることだと自分で保証したところで何になるか。セルフ・リファレンスというやつで、まるで用をなさない。だからといって、これを「表現欲求」と称したところで、それも単なる小虫の呻き声と同様である。聞く者は皆無である。延々と繰り言を重ね、この文章に何かしら一貫性が伴っているわけでもない。誤解と自己矛盾と浅薄な知識が異口同音にうずたかくなってゆくのである。だからといってどうというわけでもない。意味など、ない。そして同時に言おう。一見して論理的・目的的であるものにも、意味などない。メタな部分への言及努力をまた言うと思ったか?そんな気分ですらないのだ。


私はおそらく「価値」「目的」と人が言うのにうんざりしているのだろう。
「なんでも中途半端では、あなたのためにならない」というセリフ、「自分がかけがえのない存在になっていると思いますか?」という質問、これらを投げかけられて「私は初めから中途半端を選んできたことになりますね…」、「それは長に聞いていただければ」と各々答えたのだけれど、なんて野郎だ、社会的な努力をはなから放棄している、人に対して答える態度か、礼儀がなっとらん、色々不快に思われたことであろう。謙虚でつつましやかに答えただけなんですけどね。今後私がどうなろうが構いませんが、とりあえず、あまり人にババかけないようにだけは気をつけています。しかしなお、「価値」「目的」という響きの、誇大的なところに引っかかってしまうのです。いえ、その言葉を口にするあなたの誇大的なところに。
あなたはその言葉が何を担っているのか分かろうとしているのですか?限定的にしか使われようのない表現を普遍的な場所でも適用可能だと思っているのですか?それを口にさせるのは、何か意図があるのですか?それとも無自覚や誇大的な態度の所産なのですか?


これら手垢の付いた言葉や、単なる知識偏重をことさらに重んじてはばからない者、それらをもって生を購おうとしてる者に、いつまでたっても、近寄ることができないでいる。

*1:しかし、「より広い視点から異なる理解を引きだす」ことに専心したところで、無以上のものを得られる保証などどこにもない。