レヴィナス等閑層

自分の書いた落書きを引用形式にするってどんな自意識過剰だよ。死ぬの?

レヴィナスは、男性的と女性的という表現を使う。彼にとって女性的なるものが「他者であること」を意味している、という。確かに、自らのアポロン的なものではなく、ディオニソス的なものを鑑みるに、自らの知るところのもの、と自らの与かり知らぬものという二元的な思考方法は他の二元論に比べ、より妥当なものと思われる。しかし、彼は「女性的」という表現をなぜ使用しなければならなかったのか。天と地、太陽と月のような象徴的な表現よりも、多くのことを語るものではあろう。この場合、レヴィナスは人間存在を「男性的」という枠型にまず置き、そのうえで「女性的」という観点を他者論として展開されるべき要件として見ている、とも考えられるだろうが、それでは「男性的」「女性的」という表現をあえて使わねばならない必然性が理解できない。この場合はむしろ、レヴィナスという男性性を持つ者、その一個人にとっては、他者を言い表すとき、「女性的」という表現しかありえなかったのではないだろうか。彼もまた、一個人の域を超えることはない。それならば、一般化された論を敷衍することよりも、彼自身にとってもっとも妥当な表現を探した結果、「男性」たる彼にとっては他者は「女性」でしかなかったという事実こそ、論展開にもっとも重要な役割を担ったと考えるべきではないだろうか。


あとはこんなこと

・自らの知らぬ場所を踏破するべく、思考は絶えず用いられねばならない
・特定の言葉の普遍的な意味価値に信用を置かなくなってしまっていた
・行間を読む、あるいは言下にあるものの湧出を感じ取ろうとすること
・もし光を題材とするのならば、何がしかの象徴を付与されている例、特定の分野においてものされている例など限定的に少しずつあぶり出すのが得策かもしれない
・研究。新たな知見を見出すのであれば、結局は極めて細かな所の選分けとなるだろう。そこに世界の異なりを見出すか?ときには重箱の隅をつつくような、と揶揄も受けるだろう。