『神的批評』抓読

大澤信亮の「神的批評」を読むに、思わされることいくつか。難癖でなく。
著書名からまず引っかかりを覚えることは言うまでもない。その真意を問うつもりでも、または以前書いたように「熱持つ者」として期待するものとしても、これを手にした。そして、柄谷行人を論ずる際に挙げられる思想家の数々。そうそうたるメンツが居並ぶ中で、彼は各人のどれほどを理解していたのか――これもまた、いま私が論究できる範囲ではない。先日私の聞くように、「同じことを書くにしても、その裏打ちがあるのとないのとでは大きな違いが出る」と。それがどの程度の切り込みを見せているのか、再読する必要がある。
また。自分の思うところ、信条といわれるものが本来的に発生したものだと「思い込んで」いないか、と。彼が熱を持って表現する度に、私は冷や汗が滲むような思いを抱く。たとえばここ当たりか。

このような問いの欠落は、風景や内面や告白といった「制度」がいかに作られたかを暴く『日本近代文学の起源』が、結果的に、それらが遠近法的倒錯であることを追認するだけになっていることと並行性がある(『日本近代文学の起源』所収の「風景の発見」や「内面の発見」が書かれたのが単行本版『マルクスその可能性の中心』が刊行された1978年であることに注意しよう)。この陽気な鈍感さは自らが向き合うべき問いの忘却と直結している。そこには、ある自明性を覆す試みそれ自体に自明性への盲信が巣くっているかぎり、その実践は同時に自己批評を伴わねばならないという本質的な困難への痛覚がない。(『柄谷行人論』,p95)

論理的にどうこうではなく、この危うさが私に冷や汗を滲ませる。何を前提にし、何をどの地点から理解し、ときに共感へと到らせうるのか。これは私の問題でもある。


一方、彼の言わんとするところも感情的には分かる節もある。

今がモダンかポストモダンなのかという議論に私はまったく関心がない。すでに文学が終わっているならそれでもいい。ただ、目の前には問題が山ほどあり、どれ一つ解決されていない。それどころか問題そのものが認識されていない。認識させようとすると、「それでは大衆に伝わらない」と言われる。だが、人は危険に晒されなければ、じつは何も受け取れない。それに本当は誰もそんなものは求めていない。口当たりのいい言葉やわかりやすい解説では現実を何もつかめないことはこの十年で嫌というほど味わった。いたずらに難解な言い回しを使うのは論外だが「わかりやすいこと」と「明晰であること」は必ずしも一致しない。むしろ往々にして後者は前者を退ける。しかし、それは、「わかりにくい」現実とそれに翻弄され続ける「他者」に向き合うとき、誰もが強いられる思考の条件なのだ。(『柄谷行人論』,p111)