自己愛

思弁的でしかない物言いに、彼はどのように反応するだろうか。私の文章に「あんな観念的なもの」と一蹴した彼は。彼の言うことも分からないではない。思弁的でしかない物言いは、極めて自己愛に満ちていることが多いからだ。自分を言葉によって飾る、極めて自己愛的な行為。実践の場では何の役にも立たないもの。
「そもそも言葉が実践に寄与すべきだと誰が言った?」という反論も挙がろうか。もちろん、私も実践至上主義ではないし、思弁で何事をも埋め尽くせることができるのならば、それ以上の安逸はないとさえ思っている。しかし、だ。美的表現を尊び、永遠の命を陶酔的に語るようなものにどれほどの魅力があるというのか。いたずらに自傷行為を繰り返した思春期から、愛と真理の美しさを知るにいたった若者が、美的表現に傾倒する姿に心許なさしか残らないのは、そこに根付くものがないからである。そして、その言葉が言葉でしかなく、遂に一貫することさえも保証されることはない。近い将来、年を経た自らに身体的な醜さと精神的な疲れを感じたときには、忘れ去ってしまうものかも知れないのだ。
自分の肉を糧として生きるのは心許ない。しかし他の肉を喰らって生に取りすがるのも嫌だ。ここに背反を見出し、葛藤に苦しむか。いずれにせよ、この葛藤自体が自己愛的だと思わないか。「美しい」自慰行為など、ありはしないだろうに。
わたしはここで、あえてこう言おう。この世は醜いが、おまえも醜い。そして、それだけのこと。