呼び起こされるもの

1つの話題に関して何か言おうとするとき、おそらく何通りもの言い表し方があるのだろう。


ときどき思い出したようにレヴィナスの著書に手を伸ばすと、言い知れぬ何かが、他の著書では感じられない身近さと温かみを持って呼び起こされるのだ。もちろん、それは単なる思い込みだと言い切られても反論のしようがないのは分かっている。いまだ韜晦さを賛美するような浅はかさが残っているのかもしれない。あるいは「倫理」という言葉に噛り付いて抜けなくなってしまった我が身を慰める方便になっているのかもしれない。著書に対する真摯さを個人的な欲望でごまかしているのかどうか、少なくとも今こうやって自問している瞬間の自分について判ずることは不可能に近い(これは言い逃れではなく、たとえば自己述定の不可能性などの観点から理解して欲しい)。


仮にこれが著書からの「呼びかけ」によるものだとすれば、私が抱く感覚はいったい何なのだろうか。著書を取り巻く様々な研究書を読めば、いわゆる倫理性が様々に読み解かれているのが分かる。それは異口同音でさえなく、人によって異なる見解をも与えている印象がある。そしてかろうじて私の能力で得た内容は、私が取ろうとしている態度、姿勢を思い出させ、導こうとしているようにも思われるのだ。


自らを相手に晒せ。相手に与えられる限りのものを与えよ。相手とのかかわりには、自らの内臓の供え捧げを以ってせよ。自らに拠り所を与えてはならない。まして、私に正しさなど認めてはならない。すべてを見通すために、まずは私の内外にあるすべての出来事、思考、価値観、他者関係諸々をひとしく並置せよ。何事も、私の見方を押し付けてはならない。形にならないものを形にしてはならない。


もちろん、ここには私の偏った見方が混じっているだろうし、それどころか全くただの私見でしかないかもしれない。いや、それ自体は問題ではないのだ。すでに多くの研究者が分かっていて異なる意見を交わしているではないか。1つの答えを導きだすことが研究者たちの至上の目的ではなかろうし、難解をもって知る彼の著書からも、一意を以って教え伝えることを目論んでいたとは考えにくい(例えば、難解さで言えばグルジェフもそうだろう。彼は文章を字面通りに理解することを求めていただろうか?)。彼が取り組んでいたタルムードの性格からもうかがい知れることだろう。


この私の不安に満ちた性格が、彼の語る言葉に向かうとき。定まる場所を与えられないまま、刻々と過ぎてゆく時間のなか、私は何を自らに問い、刻むか。内的要求という意味では、「何を自らに問い、刻むべきか」ともなろうが、これは私自身の意志によるものである。私に呼び起こされているものはなにか。それを問い続けるだけで、一生を費やすことができるのかもしれない(なんという傲慢、怠慢か・・・・・・)