たった一つの源泉へ

私は、読書家や思想家、理解者や信仰者、どのような肩書きでも呼ばれたくなかった。そういった呼び名が私を縛り付けるように思えたからだし、そのように呼ばれるほどのことを私はやってきていないという後ろめたさと予めの責任回避の気持ちが働いたからだ。それらを包括して余りあるような私とは何か。それが「病う者」だったというわけだ。
このように表現することは可能だが、しかし承認欲求をこじらせた若者の思考は、人に問題提起をかまそうという大義・御託・おためごかしを錦の御旗にして、やはり自らを露悪的に見せるということをやってみせたのだった。そんなことなど、「彼」はお見通しだったのだろうか。フォークナーを直接に勧めず、フォークナーに心酔したガルシア・マルケスを勧めるあたりは、彼なりの距離のとり方というべきか。何しろ、真意を聞く機会など二度と来ないのだ。私のなかであの場での自分のコメントと渡された本と「彼」のコメントを思い出すにつけ、あらぬ想像と発見が終わることなく、尽きせぬ泉のように噴出し続けるのだ。・・・・・・本当に、ありがたいことだ。

ここ10年来、同じ事をずっと考え続けているのだ。飽きもせず。しかし、これも私が望んだことだったことをそろそろ思い出すことにしよう。おい、そろそろ起きろ!  その中の一つが、「私は何者かでありたいし、何者でもありたくない」という言葉でカタチをなしている。
よろしいだろうか、飽きもせずこのページを見てくださっている方々に、あらためて思い出してほしいのは、ここで語られていることは「自己愛に呪われた(笑)」者の言葉だということだ。この者は、「私は」とつけなければ話すことが出来ない。そして、自己愛にまみれた他者を激しく憎む。共感などしない。そして、共感されることを嫌がる(・・・そうだな。そうだ。よくある話だ。抑うつ神経症と診断された、自己愛の塊、新型うつ病とも呼ばれる人びとの特徴だ。まあ、そんなことはどうでもいい)。

私が心理学にどうしようもなく引き付けられ、しかしどこかで居心地の悪さを感じていた理由の一端がここに垣間見えている。心理学は、いや、精神分析は、いや、精神分析を志す者は、その姿、話しぶり、思考法のそこに潜む揺るがしがたい、およそ一つの源泉のみを探ろうとしがちである。彼らのロジックで言えば、分析されて掘り当てられた私の欲望とはそのようなものである。なかなか当を射ていることもあるので、はっとして二の句を告げなくなったり、抵抗したりするわけだが、不思議なことに「私のことを知りたい」と思ってやってきたものは、そんなの私じゃない、と言いたくなるのだ。それも一つの防衛機制というやつなのだが、しかし、本当にそれしか答えはないのか?と疑問が湧いてくる。もちろん心理的カニズムは仮説に過ぎないのであって、そこで理屈をこしらえることが目的ではない。心理療法においてはこれを実際の主訴の解決の材料として用いるのだと聞いている(もう、いいかげんに自信がなくなってきた)が、あえて同じ事を言い換えると、この疑問はもう少し別のことを聞いているのだ。源泉ばかり探って何が面白いのか?と。

よほど、ニジンスキーが宣言する多様な「私」のほうが、心安らかにさせてくれる。
分裂的な思考を好む者の特性だ、などと片付けられるかもしれないが、では、分析しようとする者には常に公平性が備わっているというわけではなかろう。よいだろうか、いい加減に「自分語り」に決着を付けたいのだ。たった一つの方法、価値観、私しかない、という信念は、あまりにも息苦しい。同一性の獲得など、必要ない。

つぎは、「同一性の獲得の不要」を謳う私の同一性についてでも問おうか。