機を見るに敏なり

実に1年以上経った。自分語りに決着をつけたい。

私はいままで全てに通暁していないといけないと思っていた。いまでも、だ。なんとなれば、知らないということが、私に責めを負わせるからだ。なぜ知らないのか、と。――おそらく私はこうも考える――人は言う、あなたに期待していたから聞いたのに、なぜ知らないのか。知らないで済まされるのか、この愚図、無能!と。……しかし、それはむしろ私の思い込み、自らの自己愛の所産だったということに、これまでまったく触れていなかったことにこそ気づかなければならなかったのだ。自らの問題意識を炙り出すために誇張された表現は、自らの認識を歪めさえする。やたらに穿(ほじく)り返され、尾ひれの付いた言葉は私の心性を偽装させる。そして、具体へと向かう気を喪わせるほどにまで、私をえぐり、腰抜けにさせる。まったくもって救いがたい(この言葉さえも、自己愛的だと言ったほうがよい)。
全知への渇望は、見捨てられることへの不安だったのかもしれない。

なおかつ、自己愛には自己嫌悪をもって制すればよいとも思っていた。自らの欲望に対しても、そうだ。欲望が自らの思考を奪うことを憎んでいた。いまもそうだ。だからこそ、欲望を排することに決めた。性欲を厭い、食欲を憎み、睡眠欲を排そうとした。「私の欲望は私が決める!」と高らかに自らの裡に宣言していた。そう、過度のものには過度のものをもってせよ、と言わんばかりに、それこそ徹底的に自己嫌悪を深めてきた。……しかしどうだ。今ここに「書いている」私に提示されたものは、自己嫌悪ではなかった。それは一つの方法に過ぎなかった。偏った方法。

およそ1年ほど前に、周囲のこと「で」考える、という方法を提示されたときから、この考えは揺らぎ始めていたはずだ。周囲のこと「を」考える、ではなく。これは画期的にも見えた。しかし、かつての私はこれをなじる。責任逃れだ、と。では私はあらためて問おう。お前は全知であることはできるのか、と。

これは、アプローチが誤っているのだろう。全知全能であろうとするのではなく、どこかで外の知にコネクトするタイミングを見計らっていなければならないのだ。機を見るに敏たれ、というほうが、よほど現実的である。まずは、ここからだ。