「象徴」の捉え方

ただし「無意識的なものは外界の事物に投影され(この事物を「象徴」とよぶ)それゆえに間接的に意識される」ということは述べておきたい。だから、変容のプロセスを問題にするかぎり、すぐれて主観的な、融合にちかい体験がカウンセラー−クライエントの双方に生じざるをえない。


『新版 転移/逆転移 』(氏原寛ら 2008、人文書院

「何かを代理する、代表するかのような内容の言葉、あるいは記号である。とくに精神分析では無意識との関係で理解されるもので、何らかの心的な内容、心的なエネルギーを代表、あるいは代理するもの、あるいは置き換えられたものを象徴と呼ぶ」


精神分析事典』2002,岩崎学術出版社,小此木ほか

http://d.hatena.ne.jp/obsessivision/20090708#1247050231

氏原寛の「象徴」の説明で、既に分かっていたはずのことが押し拡げられる印象を受けたので、改めて記す。
氏原によれば「象徴」は「外界の事物に投影された無意識的なもの」となる。


ここで精神分析は、「象徴」の投影元と言うべき部分を、無意識とみていることになる。
象徴は記号的なものである。あくまで観察者の視点に合わせて、仮設的に解釈を与えられてゆく。
本当に単純なことなのだが、つまり無意識が「地」となる点に注目すべきだったのだ。むろん、他分野で「地」の部分が異なることもあろう。


象徴には、前景にある知識体系との関連性の低さと、それに伴い、明示的である情報量の少なさ、また異なる視点・分野からの多様な解釈を許す点が特徴に挙げられる。
象徴は、概念よりも語義が曖昧である。語義を持つ必要がないからだ。しかし、観察者によって意味があるとみなされることもある。すなわち、象徴の意味は潜在的に内包されているとみなすこともできる。
象徴は比喩とも近い。しかし象徴が“明示された”ものであれば、比喩は“暗示する”ものである点、象徴は多義性を許し、比喩が必ずしも多義的ではない点において、両者は異なる。


苫米地氏が最も上位の概念とした「空」もまた、象徴と捉えてもいいだろう。