檻の外

自己愛とは、自らを鎖(とざ)し込める檻のようなものだ。その内側にいる限り、「私」は私の檻から出ることができない。自らが檻の中にいることを選択しているからだ。では、どうするかだ。別の観点からこの“問題”を考えることにしよう。私がここで記事を書く際のクセがある。他のテキストを参照しようともしないのだ。まるで自らが全知であるかのような傲慢さだ。これはおそらく、神経症者の物言いだとも言われる、「そんなことは知っている」とも同じ場所にあることだろう。(http://aikansyheiwa.blog21.fc2.com/blog-entry-454.html このページで思い出した)
相手に本気で向かい合い続けていれば、この自家中毒の温床から抜けられるようにも思うのだが、どうだろうか。

 そんなことは大学でベンキョーする必要はない。第一、大学はそういうことを教えない。それよりも「本」を本気で扱ってみると、「方法の知」はたちまち見えてくる。本の入手から読み込みをへて、その本をどこかに提示しておき、その提示された本を何度も自分や他人に出入りさせてみるということをいささかでも続けてみれば、「知」が活性化するにこれを出入りさせるエディティング・インターフェースこそが重要で、その「出入りの知」をもって「分類の知」を動かすことこそが、本来の知の歴史の中央に列することではないかと思えるはずなのだ。
 1493夜『知識の社会史』http://1000ya.isis.ne.jp/1493.html

「それよりも「本」を本気で扱ってみると…」とは、人との付き合い方にも見える。相手に資するためには、相手を知り、こちらからできることを忖度する必要がある。これが損なわれる時は、自分本位、手前味噌の振る舞いとなっていることが多い。こちらのモノサシでしか相手を知ろうとしなければ、相手に資することなどできようはずもない。

しかし翻ると、これを内から外へと向かう一つのモデルにしか思えない。これは、私の不見識のゆえだ。自らを養うことが目的の座から離れようとしていないからだろう。どんなことも自らを成長させるために必要なこと、などと考えていれば、畢竟「私」の檻からは逃れることはできまい。