印相

印相(ムドラー)というものに心惹かれる。ここのところ消耗が速く、感情も伴って崩れていくことにはおそらく咳をしすぎたり、いずれ全身が不調に陥っているからではないか、であればいま少しの間に合わせで呼吸とこの態勢を整える「しるし」が欲しい、と思ったのだった。

印相とは仏像の手に示される形象を指すと思っているのだが、これは、古代における身体性を伴う文字なのだとどこかで読んだ気がする。古代だから書き文字が発達していなかった、というのではない。書き文字よりも、より全身の記憶として残しえるものが印相なのではないかと思う。

印相から、手話を連想させてくれたものもある。右の余白にはその例を示してあるが、あ、これはいけないと感じた。いま、これを見てはいけない、と。(https://1000ya.isis.ne.jp/0933.html

視覚的なものは、一気に了解を迫ってくるように思われる。いや、そんな受け身の話でもない。勝手にこちらが了解、納得した気になってしまうのだ。これを何と言えばよいのか、視覚から入る言葉は、より全身を通じて入る言葉よりも了解の「終点」が浅いところにとどまってしまうような気がする。
まるで他の捉え方を拒むような了解。それは、まるで頸を締める行為にも似ている。