核心、真の名

以降覚書。外縁をひたすらなぞり続けること。それは、核心に敢えて触れずにいること。しかしひたすらに、その派生的な事柄に言及し、それが何かを付随的な観点からしか述べないこと。すると、実際に核心に触れずとも、核心への意識を持ちながら語り続ける意識は蓄積され、外縁への言及は言葉に含まれる意味よりもさらに核心への非言語的な“意識”“イメージ”と言ったものが溢れる…。まるで前戯ではないか、などと言ってはいけない。ここに見られる事況は、タルムードの生成過程に似ているのではないか、とも思えるのである。何を不遜な、というかおまえは頭がおかしいのか、と言われても別に一向に構わん。思考モデルの一例として検討しようとしているだけであって、別にこれで畜獣たる異邦人の私が殺されてもそれは別問題なのである。私は考えることをやめるつもりはない。「神の名を口にしてはならない」この決まりによって、神は四文字でしか呼ばれることはなくなった。唯一神を掲げる宗教において神は最高の価値を有すると考えられる。その名前が呼ばれないというのは、真の名を呼ばれることに致命的な危険があると判断したからだと言えよう。また、真の名は一般的に秘匿されるものであり、名を教えることが相手への従属を意味するとしたものはあまりに多い。翻って述べよう。本質、核心、こういったものは実際に存在しない。それは仮定されているだけである。これに値すると思われるものに言葉を与え、「私は知っている」という態度を取った瞬間に、それは明らかな誤りを呈する。誤解に誤解を積み重ねるように、よりさらに求めるべき方向からそれていってしまうのである。あえて名指さぬこと。しかしひたすらに向かい続けること。極めて矛盾した行為であるとしか言いようがない。しかしそれによってしか、我々は何も見出し得ないのではないのではないだろうか。