第3教室 第5話

モーニング・ツー。第3教室はこれで5話目を迎える。作者・田口佳宏氏は息も漏らさぬようにイメージを絵に凝縮させて描いていく、と4話目で呟いたのだったか。回を重ねるごとに、絵は洗練されているようだ。作者は絵の技術向上のためにイメージを凝らしているのだろうか?……そう思ってしまうほど、変わっていく。初回から水木しげるの画風は盛り込まれていたし、望月峯太郎(望月ミネタロウ)のような特徴がキャラから滲みだす。しっかりとした輪郭線と描き込みの少ない顔。動線で示す人の動き。目、歯、鼻などパーツへのこだわり。完成された造形。しかも、他の漫画家の画風も毎回次々に変えながら盛り込んでいるようにも思える。だが、私はコマ割りの特徴まで捉えるのは苦手で、細かくはよく分からない。少なくとも作者が意図して他の素材を用いているように思えるだけだ。


さて、内容はどうだろう。教師阿佐田の肉体に乗っ取った高次な思想(!!)を持った生命体が、「統合」されずに残った生徒たちを一人ずつ捉えていく。モッチー、ゲンジ、そして今回は一郎。阿佐田はすでに悪役として描かれている。相変わらずシワの多い顔が過剰な演技を見せ、読者にはよい印象を与えようとしない。また一郎は阿佐田の“策略”にまんまと絡めとられている。これは興味深いことだ。ここだけ見れば安易な宗教思想にやんわりと反意を示しているとも取れる。しかしまだ黙っていよう。第一に危惧していたことはクリアした。すなわち、単一の“理想的”な思想を作品に落とし込み、それでよしとする、単純で高邁でいかにもな展開。これをクリアすれば、次はそのアイデアを対象化することへと作業が移るだろう。例えばその異形の思想を打ち破ることを目指すような善悪構図の構成。そして/したがって第三に狙うべきはその対象化された異形の思想をどのように扱っていくか、だろうか。ここで危惧されるのは善悪構図により、悪を打ち破り善が支配するという結末だ。ジャンプか!!と言いたい。考えてもみよう。悪を打ち破った後の善は、やはり同じ形で<世界を支配する>ことになる。もちろんここで諸行無常に思いを馳せ、連綿と続く歴史を描いた作品も少なくない。しかしそれでも、私はまったく満足できない。そもそもそんな話をこの作品で描くことがはたしてふさわしいのか?最近はこの考え方に対し、エヴァンゲリオンが大々的に唱えた奇妙な世界観によるアイデアが幅を利かせてきている。あらためて「私」の世界に視点を収束させ、多くの危機やメッセージをちりばめては「私」という存在を限りなく肥大させ、“「私」は「あなた」、「あなた」は「私」。だって私たちは一つだから”というような極めて奇妙なイメージをぶちこもうとする……。


第5話を読みながら抱いていたのは、お互いが断絶された存在なのだ、ということ。一郎の寂しさ、ゲンジの寂しさ、モッチーの寂しさ、それぞれが自分ではどうすることもできない現実を前に自分の孤独を深めている。それでは、マモルもそうではないか?というのだ。マモルは、実はそうでもなさそうなのである。彼は死んだ兄を自分の心に描いて寂しさを置き換えていた。そして今、幻想を見なくなったとき現実のつながりがやっと輪郭をとって彼の前に現れている。母親、友だち、そういった存在が彼を「ここ」につなぎとめている。おそらく、今後も物語の中でマモルに関しては言及されるだろう。マモルと阿佐田の対立、という絵図。明らかに力の差がありすぎる状態で、マモルはどうなっていくのだろう。逃げるのか、取りこまれるのか、はたまた金魚→ネズミ→鳥?と意識の座を変えてゆく阿佐田の助けがあるのか?


繰り返して作者以外の者が注意しておきたいのは、こういった物語から読み取れたと感じたものを安易に抽象化、象徴化したくなる思いを極力抑えるべきだということだ。あー……モーニング・ツーの編集者の一部だろうか、作品の最後にあるヒキのコメントにメッセージ性たっぷりの言葉を盛り込んでそれでよしとしている者がいる。はっきりいってつまらん。それは分かりにくい内容を「わかりやすく」させるためのものなのか?“メッセージ”を代弁しているつもりか?もし誤読であったらどうする気なのだろう(もちろんどうもしない。このコメントが載るのは雑誌だけだから)。できることならコメントは要らないのだ。何度もジャンプを引き合いに出すような無知なのだけど、週刊少年誌はその点がうまい。その20ページ前後で起きたこと、最新の展開をコンパクトにまとめて放り込む。違和感なく、しかし読者は物語の針路をつかむことができる。だから実際のところ編集者の“顔”が出てこない。これがよい。作者でもなく、読者でもない編集者を第3者として位置付けるとき、それは限りなく透明であるべきではないのか。井上靖小林秀雄が述べていたことに通じると思うのだが、編集者とは翻訳家と似た作業をここで行うことになる。いかに読者に作品を理解してもらうように努めるか、そこがまずは、第一に、何よりも、求められることだと思うのだが……。


作者以外の門外漢(作者以外が作者の作品への構想、イメージにたいして門外漢でなくて何だというのか)が横やりを入れるのは上策とは言い難い。入れるのは横やりではなく、むしろ・せいぜい閉じそうになったり描けなくなった時の「テコ」くらいなものである。そして私は、作者の持つ、狂気にも近いイメージのよりさらなる凝縮を、物語の広がりを願っているのだ。


例えば『DAYDREAM BELIEVER』(福島聡)、例えば『度胸星』(山田正芳)、例えば『マリオガン』(木葉功一)。こういった、地平を激しく広げて進み続ける物語はこれまでに殆ど、いや全て頓挫してきた。先行きの分からない物語に先行投資することが出来るのは、その時点で高い人気を得ていたときだけである。あとは……藤沢とおるだろうか。こちらは自分で勝手に頓挫しているだけだが。さあ、今は面白くなるかの分かれ道。