Twitterの雲をつかむ

かつて、言葉を無駄遣いしてはいけないといった旨の忠告を受けた。そのような発言をすること自体、あなたの言葉や考えはそのようなものなのだから、と。

「そんなことを言っていると軽い人間だと見られるよ」という意味ではない。「言葉を不用意に使えば、不用意な思考しかしなくなる」「言葉の内圧を日頃より下げていれば、練度の高い言葉を出すことができなくなる」という意味だと捉えている。

あの忠告を受けたのは、もう8,9年も昔のことだったろうか。

 

彼の忠告を半分ほどしか受け止めていなかった私は、何とか内圧を高めようと試みたものの、失敗した。

自分に決定的な不足を理解していなかったのだ。――いわゆる技術 art を。

「自分のものではない構造物としての思考」≒「技術」≒「方法」。

 

最近ではTwitterをよく見るが、あれほどまでに有象無象が同じ話題で盛り上がっているのを私はこれまで見たことがなかった。一つの話題でも、人々の差がきわめて開いていることがよく分かる。理解、表現、疎通、どれひとつとっても同じではない。

これを一般論だと思うか。では、あなたが一つの話題にどれほど精通しているか、試しに見てみるとよい。これを読んでいるあなたでさえ、その話題にまったく偏った捉え方と意見しか持っていないだろう。そして、有象無象の言うことが全体としてどのような状況を作り出しているのか、十分に説明ができないだろう。せいぜいあなたにできるのは、あなたに理解できることを言葉にすることしかないのだ。

 

わたしはこの混沌をこそ理解の対象として挑んでいきたい。

その試みは、かつての表層的な、術語ばかりを追うような真似ではないものでありたい。(そして、この空虚な抱負は、ここから先を確かに掴みだすことに常に失敗し続けてきた。だからこそ、私はブログを書くことを止めてしまっていたのだ)