「あなた」への罪

度し難い行為によって人に害なしてしまった時、あるいは与り知らぬところで厭われるべきことに絡んでおった時、苦しいほどに胸を鷲掴みにされるような思いに襲われるのだ。かつて10年前後の昔だが、日々これに苦しめられ、身動きとれなくなっていたことを思い出す。あれから私は何も変わっていない。人からの害意を、自身の存在を根本から否定しているように感じるところは、何も変わろうとしていない。つまり、自分のやったことはもう取り返しの着かないことであって、どんなに謝ろうとも・償おうとも、起きてしまったことを覆いつくしたり・完全になかったことにしたり・覆したりすることはできない。すなわちそれは、私が生きている限り、「あなた」に対して責めを負うているということである。私は、逆に優位な立場から「あなた」を責めることなどできない。なぜなら、「あなた」を仮に論破し屈伏させたとしても、「あなた」はそれによって私に好い感情を持つことはなく、むしろ“攻撃された”“虐げられた”ことへの私への負の感情を抱くことだろう。別の状況において「あなた」を陥れたとしても、それはここで起きた事実とは関係がなく、つまり私は不正な手段によって「あなた」を害したということになる。どのようにしても私は「あなた」に対して責を負い続ける。死んで詫びたとしても、根本的な解決へ到ることはない。確かに生きている限り「あなた」に不快な思いをさせるのだから、それならば死んでしまえば不快な思いを取り除くことができる、そう思うだろう。そうではない。もちろん死ねば喜ぶ人も中にはいるだろう。その人のためにならば、私は望んで死ぬだろう。しかし私が死ぬことで更に不快な思いを抱かせる可能性の方が、圧倒的に大きいのだ。“死ぬ”ということは、相手への責任の回避であり、消極的かつ婉曲的だが、明らかな攻撃行為である。すなわち、相手が生きていることへその逆の出来事を突き付けることであり、“「あなた」が私を憎み続けたから、私は死ぬことになったのだ”と(私が言わなかったにせよ)私が言わんとしているのだと捉えさせることにもなりうる。死という事実は永久に動かず、生きる人に咎を負わせ続ける。死んだ私は相手に不正に苦しみを負わせ、その責任の場から逃げ出しているのと同じなのだ。だから私は、死ぬこともできず、だからと言って生き続けることもできない。少なくとも私は「あなた」の中では不快なものとして残り続ける。「あなた」の中で私は否定され続ける。「あなた」の世界で私は(私の望む形で!!)生きてゆくことがかなわない。私はこの世界で、生きていく場所を失ってしまった。……ならば、どうしろというのか。どうしようもないのだ。生きることもかなわず、死ぬこともかなわず、それならば、息を潜めるように日々を過ごし、「あなた」の目に触れぬように生きているしかない。私は咎人だ。私にできることは、ただ、この後に残された生をおめおめと永らえていくしかない。せめて出来ることは、罪を償い続けることだけだ。「あなた」が生きている限り、私が生きている限り、私は永遠に許されることのない罪を償い続けるしかない。「あなた」の中で私という不快な存在が消えてしまうこと、あるいは「あなた」が勝手に死んでしまうこと、それを心から願ってやまない。