刻み傷

そして、私はその思いを忘れぬよう、強い力で刻みつけようとする。苦しみに呻こうとも、その顔が蒼褪めようとも、その突き立てた木の枝を握ったその手を緩めることなく、私自身が苦しむ方向へと徐々にずらしてゆく。
この行為は、えてして誤解されやすいものだ。曰く、マゾヒスティックだと。また曰く、自己陶酔だと。当の自分さえもそう思いそうになってしまったのも一度や二度の話ではない。そう、そう思わなければ、苦しくて辛くてたまらないのだ。何か自分にとって意味のあることと思わなければ、やりきれないのだ…。だから、無理にでもその苦しみをこじつけようとする。痛くて苦しいのは、それが気持ち良く、性的に興奮を覚えるから。あるいは、そのような受難を一心に耐えている自分が尊く、美しいから、と。おぞましくも精神分析的には、まことに理に適った心理的反応であると言える。
だが、私がなぜこの木の枝を自分の急所に突き立てているのか、その根本には何一つ応えてはいない。いや、もっと丁寧に表現しよう。ありきたりの「私のための」答えを用意することで、自分や他人を当面はごまかしておいているだけだということを、私は先の「自分の物語」というその渦中では気付くことが出来ない。…誰でも答えが欲しいのだ。分かりやすい「自分のための」答えが。しかし、この行為において、私は答えを得ることを回避し続ける。この痛みを、何か別の呼び名で呼び誤魔化してしまうことを限りなく回避し続ける。痛みは、痛みだ。この痛みには名前などない。ただ、私が人から差し向けられる不快感を永遠に償い続けるために、その痛みを、ただ、常に感じ続けるように仕向けているだけだ。そもそも、自分自身を否定されるという体験は、珠たる自己の瑕であるとも言える。神話的初源において、自己の意識とは曇りも瑕もない完全な珠であった。その珠は世界と関わるにつれて摩り減ってゆき、無数の瑕が付いていく。しかし人は、自身が珠たることをどこかで信じ続け、自身が他でもない自身であることを自身の中で正当化しようとする。人間個人の力、可能性を信ずる人は、私が苦しむのを見てこう言うことが多い。「そんなに苦しまなくたっていいじゃないか、逃げたっていいんだよ」先にも書いたように、このことばはすでに検討済みである。逃げるという主体的な選択は、もはや自らを「咎人」と名指した私には残っていない。別次元の選択肢を新たに提示されたとしても、単なる責任回避として拒否するだろう。物事を単純化してしまうような言葉は捨てよ。苦しみを苦しみとして、いや、“心身のどこかをうねる強い違和感”というようにまるで言葉が全く用をなしていないような、指すべき形を持たないものとして、常に、この木の枝で刻みつけた刻み傷を持ち続けること。