引用の長短について

しだいに、自分の言葉なぞ聞きたくもなくなるのだろう。聞きたくもなければ、語りたくもない。思考をめぐらせ、静謐の中に、多くの声を聴きとっているうちに、ふと我に返るとそれ以上の無音の内にあって、自分の声があまりに聞きなれたものでしか形作られていないことに気づいてしまう。さんざん噛みしめたはずの言葉をしたり顔で相も変わらず語るという愚。それは恥でしかあるまい。だから、引用を重ねるのだろうか。
しかし一方で、引用とは他者の言葉であって、外からの刺激をもって自らを活性化させようとする試みのひとつでしかないようにも思う。刺激としての他者は、それ以上の深みを持てない。考える契機になりこそすれ、それは肉付けの意義しか持つことはできない。刺激という外からの到来に腐心するのではない、豊かな意味の表れとは、おそらく自分も他者も解体してしまうような瞬間に初めて訪れるのではないだろうか。