文章の書き方について

以下の記述は、先日記した感想文に関するもの。本文は後日、当記事に載せる。


断簡、断章。感じたものの記述は、全てを語りつくすことに到達できない。自分自身の考えが語りつくされたと思った直後に、その“足りなさ”は既に生起、滲出を始めている。
当の文章で注意していたのは、まず概念化についてである。概念化とは既知の語彙によって体験を縮減させる行為である。そのため、体験されたことそのもの、またそれを静的ではなく動的な状態として記述することが優先される。これによって、当の文章では体験を逐次的に記述する効果を最大限に求めた。
概念化を避けるためには、動的に表現するだけでは足りない。次に求めたのは、自身の理解によって相矛盾すると思われる“こと”をも描出する、ということである。“こと”とは、体験のみならず、体験を表現する際に、のちにそれと感じられる事柄や、矛盾した表現をも指す。たとえば語義矛盾や撞着語法は時に論理的文章では非難されるものではあるが、かかる表現も必要であれば取り入れるべきであると考えた。
もっとも、注意しておきたいのは、その際にも概念化は容易に侵出を図っているということである。“言いようのないもの”を表現する際、まるで自分がそれを知っているかのような錯覚に陥り、かかる自分が高次な知性・感性を持っている――「備えている」でもない、より傲慢な言い方である――と思い込んで衒学的な表現を行う文章が散見される。韜晦な言い回しを行った時点で、大方は自分自身も十分に理解できていないものを既存の表現へ不当に還元してしまっていることに注意を払わねばならない。そもそも文章とは読み手がいてこそ成立するものである。読み手に読まれることを望むのであれば、それは読み手が理解しうる最大限の配慮を行うべきである。既知の表現は、その際にしばしば安易に選ばれるものであるが、しかしその体験自体の十全な表現は保障されえない。“相手と感性を共有できている”という錯覚、“相手よりも優れた感性を持っている”という錯覚、より言えば、実は文章を相手に読ませることが目的なのではなく、自分の欲望を満足させることを目的としているのかもしれない、という可能性を常に考慮して文章表現は行われねばならないのではないだろうか。
それゆえに「読むに足る」文章のためには、どれほど贅言を費やしてもよいとも言えるが、しかしできるだけ簡素にするようにも図らねばならない。
だがこれらの注意点をもってしても、“足りなさ”を補うことができないのは明白である。体験的なものはそもそも言語ではないため、のちに不足が判明するという事態もあろう。断章とは、そのため本来的に不足を胚胎しており、それが何であるかも当の時点でわかることもない。これは理解・考察不足ということでさえない。不足するものは後にて到来するのである。 これをレヴィナス関連で連想したことも追記する。

また、当の文章の粗探しをすると、まず全体的な考察が欠落している。見たこと、感じたことをそのまま、くまなく記述すればそれでよいわけがない。単なる感想文がそれ以上の何かになり得ない理由である。「まとめ」が必要だといわれるのは、「いったいそこで何が言われているのか」を(ときに別の視点から)包括的に捉えることになるからである。縷々と見聞きを述べたところで、何の面白みがあろうか。水準を変えることは、記述者の考察の広がり、深まりに寄与する。節操無しと言われたところで、そういった可能性の領域をはなから捨象してしまえば、考察の深度は変わりようがなく終わってしまう。茶飲み話に終わるのである。より、さらに別の観点から、という自らの現在の思考形式を否定するように向かわねばならないのではないか。

次に、ヤマ・タニがない。数年前、知人に私の文章には「ナマ感がない」と再三指摘されたことを思い出す。別の方からは、物事を観念的に、いわば「上から」捉えようとして、比喩や例示が少なく形容詞を多用しており、あるいは固い言い方になっていると。
今回の感想の提出先を考えれば、硬質な書き方になるともいえる。また個人的に比喩を減らして形容詞を多用するのは、簡潔に書くための方法でもある。しかし一方で、このような表現方法は文章を抽象化へと向かわせる。読み進めるには、読み手の積極的な意欲が必要となる。これに付随した指摘が、「いつのまにか読んでいた、というタイプの文章ではない」ということ。読み手に一定の努力を求めるのであれば、おのずとその人数は減るだろう。
だが、よりくだけた、読みやすく、読み進めようと思わせる文章とはいったいいかなるものだろうか。たんにですます調に変えたり、言葉を選ばず表現すればよいという話ではない。たとえば、昨晩知人が挙げた『ナチュン』の「そして、肉の時間」のように、惹きつける一文があれば、様相は大きく変わるのかもしれない。
先に指摘された、全文章の中から抜きんでて目を引くほどの一文もなく、終始均等な質感がある…それは一定のクオリティとも一方では評価されるのかもしれないが、魅力ではない。『ピアノの森』を挙げれば、完成度とは程遠いところから惹きつける“何か”を持った演奏をする少女が登場していた。その“何か”とは個人的な感覚、たとえば演奏する歓びともなるだろう。極めて個人的な“何か”が作品の魅力となることは多数例示せずとも知られているはずだ。それは「無意識」の所産かもしれないし、あるいは村上春樹の言う「うなぎ」なるものとの合議に依るものなのかもしれない。少なくとも、その“謎”めいたものを分析のふるいに掛けることなく、ことばに乗せることに焦点を向かうことにもなるだろう。