ノルウェイの森

ノルウェイの森」原作読了。映画を見るにあたり、原作から感じ取る印象を書き留めておく必要がある。とかく人はものを忘れやすく、私自身もこのまま映画を見ることがあれば、小説と映画の差異を意識することなく「読み替え」を行うだろう。原作にこだわる原作厨の方がまだましだ。原作から受け取った印象と二次的創作物から受け取った印象を強く意識し、その違いを感情的にであれ表明することができるのだから。私はその場で感じたことを限りなく覚えておかねばならない。そうでなければ私と私の周りで起きたことを意識しないまま、何事をも愚鈍に通り過ぎていくことしかできない。


ノルウェイの森」を読み終えたのち、私が抱いた印象を大きく分けるならいくつかの相/層/局に分けたほうがよいだろうと感じた。すなわちそれは作品そのものの相、読み手である私の相、そして私が思い浮かべる人・物事の相である。これら3者ははっきりと分けられるものではなく、それぞれが絡み合っているものではあるのだけど、少なくとも私の印象を言い分ける際に多少は有用だろう。


まずは作品そのものの相からいこう。これまで読んできた村上春樹の小説のなかで、「ノルウェイの森」は特に登場人物それぞれの描写が色分けできるほどの明確さを持っているようだ。私はこれを書いている今でもその人々の姿を思い描くことができる。主人公ワタナベ、直子、永沢、緑、キズキ、突撃隊、レイコさん。ワタナベと十分に長い間話すことのできる人々は少なく、そのために私は彼らを思い出すことができるのかもしれないが、彼らがワタナベと似た性質を持ち、それぞれ独自のやり方を持っているように感じられる。それは皆が「自分のモノサシ」を持っている、と言うこともできるだろう。この世で起きている物事を、社会的にあらかじめ準備された価値観によって理解することなく、自分の感じたやり方でとらえようとしている。もちろん、彼らの中にはそうすることしかできなかったものも多く含まれるし、もしかすると彼らは皆すべてがそうすることしかできない社会不適合な人々だということもできるかもしれない。

とはいえ前半は、“羊三部作”から変わることのない村上作品の主人公のイメージが付いて回る。一般的に村上作品はアメリカ文学に見られるような淡々とした情景描写によって構成され、それは日本の大作家にとって時に見過ごすことのできない「バタ臭さ」と映る。異なる文化圏にあこがれた者の浅薄な文章表現と見えるのだろうか。現にワタナベの視点から描かれるこの物語は、常に周囲の物事から距離を取っており、それは自分自身の感情に対してもそのようである。冷静、ともとれるその視点からは、曰く言い難い心情の揺れ動きさえも何かしらの表現をもって示される。だが、視点を変えればこの冷静さはワタナベや、作者自身の止み難い在り方なのかもしれない。そのようにして距離を取らなければ自らを保つことができないのかもしれない。ワタナベは永沢さんや直子、レイコさんのようなどこか別の所を見つめているような人々によく感応する。療養施設を訪れた後に彼は、目の前の様々な物事に混乱する。

そんな光景を見ていると、僕はだんだん頭が混乱して、何がなんだかわからなくなってきた。いったいこれは何なのだろう、と僕は思った。いったいこれらの光景はみんな何を意味しているのだろう、と。

「何を意味しているのだろう」――彼はそう言うのだが、おそらく彼は意味を問うているのではない。直子たちの居た場所とはあまりにも違う目の前の雑多な光景が、あまりにどぎつい姿で何事かを示すこともなく我が物顔で振舞っているのに対応できなくなってしまったのだろう。ではあの場所を訪れる前も、彼は混乱していたのだろうか。おそらく(おそらく、としか言えないが)彼は雑多な物事に対しても、何とか自らを保っていられたのだ。しかしそれは雑多な現実に根ざしたものではなく、周囲の吹き荒れる風雨の強さに見合うような強度で、彼はかろうじて木製の道標のようなものを支えていたにすぎない。彼が訪れた場所はあまりに静謐で、全てをありのまま丁寧に切り取って時間を止めてしまったような場所だったのかもしれない。

また、永沢さんを同時に思い出してほしい。彼はワタナベとまるで対照的で、この世の物事を見通してしまっていてそれでもなお、自身の図太さを持っていられるような人間である。ワタナベの揺れ動きやすさと比べてその姿は「超然」という形容が似合いそうなものだが、彼もまたワタナベと似た感覚が根ざしていると言っていいのかもしれない。
この作品において示されているのは、『死は生の対極としてではなく、その一部として存在している』という冒頭の言葉も示すように、簡単に言ってしまえば生と死に向き合ってしまった人びとの混乱と収束の光景であるように思われる。これがワタナベの出した結論であるかもしれないが、それはひとまずの答えでしかないし、人によってまったく異なる答えも同時に存在していることを知っておかねばならない。最後の部分で、ワタナベが緑に「あなた、今どこにいるの?」と聞かれたときに言葉を失ってしまったように、わたしも答えのない荒野に放り出されてしまったように感じた。


そして読み手である私の相。これは、ここであえて言う必要もない。なぜなら、作品そのものの相において私自身の見方・主観は多く含まれているだろうし、そこから私自身のスタンスもおのずとうかがい知れるだろうからだ。しかし、だからといって、この相を無視するわけにもいかない。私たちはものごとを理解・判断する際に、それが客観的か主観的かということも意識せず、目の前に起きていること、そこに描かれていることを客観的な事実として確信することが多いからだ。それを承知で、簡単に言い表すとするならば、私自身にとって生死に関する事柄は今までよりも境界線をさらに失っており、たとえば「生きること」「死ぬこと」と表現されることを単純に肯定的・否定的なものとして語れなってきている、ということになる。生の価値であるとか、死の恐ろしさというような、誰もが口にし、もはや何を言っているのか分からないほどに手垢のついた言葉を無自覚に振りかざすことなどもうできない。そうだからだろうか、私は、村上作品の登場人物に見られる言動の不透明さ、読む人によっては「何を言っているのか分からない」と言われるような、不可解な感覚のことは、昔よりも分かる気がするのだ。


最後に、私が思い浮かべる人・物事の相だ。「ノルウェイの森」に付帯する事柄は、この作品を読み進めるごとにいくつも思い出される。それが意識されるのは、本文中のせりふや表現からであることが多い。そして、この本を初めて勧めた身内のことを思い出す。彼が私に紹介した一節は、終盤のレイコさんの言葉だ。彼女は療養施設を出てワタナベの部屋を訪れ、こう言うのだ。

「私はもう終ってしまった人間なのよ。あなたの目の前にいるのはかつての私自身の残存記憶にすぎないのよ。私自身の中にあった一番大事なものはもうとっくの昔に死んでしまっていて、私はただその記憶に従って行動しているにすぎないのよ」

本作品を紹介した彼は、この台詞をどのように思っていたのだろうか。少なくとも私はこの台詞に初めて出会ったとき、何を言っているのか一瞬分からなくなってしまった。「残存記憶」?彼によって抜き出されたこの台詞だけが、突然書き文字の言葉として、私の目の前に現れた。それまで作品の情景を構成していた文章群の中から、この「言葉」だけがそこに現れたように感じた。しばしば登場人物はこのように表現し難い何事かを総括するように言い表す。もしかすると、村上作品に馴染まない人々の「分からなさ」、そしてよく馴染む人々の感応はここに見出されるのではないだろうか。彼は何度もこの作品「ノルウェイの森」を読んだと言う。彼は彼なりにのめり込んでいったのだろうし、その程度についてどうこう言えるわけではない。ただ彼は、「生きる」ためにこの言葉を自らの道標としたのではないか。「生きる」という選択肢のもとで、これからの時間を送っていくために。この言葉自体には、もはや失われた事柄をかろうじて記憶の中に残しておこうとする、乾いた記号的な印象がある。もっとも、初めから記号的であるというよりも、どうしても記号的であることしか選択できなかったような、エネルギーの枯渇と、なお残り火(陽?小さな光)のように残る“切実さ”を感じる。彼がもしこれを「生きる」ために選んだとするなら、この言葉は、彼にとって、自らの体験を自らの内に傷のように刻みつけておくためのものだったのではないか、と感じるのだ。生きていくことを不文律の前提条件としている人にとっては、おそらくこのような言葉などそれ以上の意味を持たない単なる意味不明の状態描写であろう。それどころか、「何を分かり切ったことを延々と繰り言のように」となることだろう。だれしもが持っている感覚とまではいかない、意味/無意味さえも超えた光景はしかし、ふとした瞬間に目の前に広がっているのだ。

彼は映画を見て、ショックを受けたと言う。「やっぱり切り取り方で違うよねーっていうショック」。答えや明確なテーマを持っているわけではなく、しかし向かうべき方向だけが深く、広く口を開けているような作品は、読者ひとりひとりにそれぞれの捉え方をもたらすことだろう。私もまた、小説から感じたものと映画で感じたものを見極めるためにこのような文章を書き連ねたのだ。恐らくこの文章もまた書き加えられるだろうし、別個に書くであろう映画での印象も、私の中の「何か」を見極めるために書かれていくのだろう。そう、つまるところは私自身のためでしかない文章を、いまここで、一見論理的な形で構築しようとしているだけなのだ。