言い訳、と混濁

言い訳がましいこと。だれが言っていたのだろうか、若い者はとかく自尊心や誇大的なところを嫌って削り落そうとする。そうではなく、それも含めて自分自身であり、それを含めて表現としなければならない…。ああ、思い出した。吉田聡が連載している『七月の骨』、今号登場しているベテラン漫画家の言葉であった。
またあるいは、車谷長吉の母は『抜髪』で「みな人にほめられたいん。ほめられとうて、ほめられとうて、犬が餌待っとるようなもんやが。あの人みて見ィ。ほめられたら、ええ気持ちになって。ころっとだまされて、お追従しよってやが。うちが思うには、ほめられるいうことは耳の穴に毒流し込まれることや。うちもじきにええ気持ちになる。」という。
人の慾、という話でもある。あるいはケレン味などという話でもある。書く者の性根に、その思いが綯い交ぜになり、そして表面的なことを延々と述べ、何にも到らず、「夢のもつれ」(『赤目四十八瀧心中未遂』)のようなものを書き続ける。自らを何者かにせんとして、何かを言おうとする。もごもごと、口ごもったその音は声にもならない。核心めいたことを言おうとすれば、そうなる。核心的なことを口に出来たとすれば、それはハッタリにしか過ぎない。権威も、法もあったものではない。自分がいっぱしの何者かであると思っている者は多いだろう。年をとれば、何かが執着となって自らをかたくなに守ろうとするのだろうか。あの、車谷長吉でさえ、「くうちゃん、長生きしてね」という妻の言葉に囚われ、私小説を辞めたというではないか……。
悲しい。こうしていることが悲しい。何かどこかへ飛びたてると頭の隅で思い込んでいた私は、常識や世間知などというものを無視決め込んで、キワモノを好んで口にしてきた。そんな私が、いま何をしているかというと、いっぱしの社会人気取りでいるというのだ…穏やかな顔をして社会で蠢いているというのだ。忘れてしまうこと、中途でやめてしまうこと、何かを続けること、成し遂げること、過去を振り返ること、将来を見はるかすこと。どれをとっても、やはり悲しい。結局のところ、何も始まってはいないし、何も終わってすらいないのだ。私は10年以上前に知人に言われた言葉に、いまだに囚われている。「終わっているというか、お前は始まってもおらん」。
真実であるかどうかではない。私の言葉でも無い。ただ、杉山実の『デバイス・ガール』で突き落とされた少女の落下とともに、空間がみるみるえぐれていくように、底が抜けていくように、また神林長平の『完璧な涙』で言われる時間や生の整序がなされずあるように、両足を置くこの地平がただ砂のように、空虚のように、いつ消えてなくなるかも分からないのに、ここになぜ私の意識があるのだろうか。