瑕・撞着。その先

以下は、今日の記事から、取りとめもなく思ったこと。
拙文は論理もクソもないが、そのまま残す。ブログ主の方、すみません。
http://yokato41.blogspot.jp/

ことばは、数少ない知識から私を象るために選ばれる。
数少ない知識。そのなかで、私は数を拾う。
豊かに生い茂った夜闇の息吹は、細く細く、そして長く震える。
充たされた、と思う時間の中で、自らが豊かに優しくあることを信じる。
もちろん、それは悪いことではない。
おそらく、私は愛とは何かを探り始めている。
それが全くの徒労であること、
その一語にどれほどの意味もないこと、を知りながら。
ただ、たった一語が手懸りとして明滅し、問いを問いとして、
まがい物の問いとして残し続ける。
「そんなものに答えはない」と一笑に付されるのは分かっている。
ただ、従来困難さをしがみ続けてきたことが災いしてか、
常の問いがないことに怠慢とそれへの不安を感じるようになってしまった。

そして、この言葉が確かに単なる独り言であるはずなのに、
この言葉が、いや、この言葉を発する私が塵芥とともに忘れ去られてしまうことを
いつの間にか恐れている。
言葉を発すれば発するほど、それは自己満足と言葉の神々しさを想い移ろいつつ、
自らの纏った姿を人に見せつけようとして、見せ付けたくて、
しょうがなくなってくるのだ。
人とはこんなにも愚かしい。

自らが見られる時と、見られたい時では
その主題は大きく異なる。
いうなればどちらも人の愚かしさの変奏でしかないのだが。
見られたい者は、何とかして人を振り向かせようとする。
大きなことを言い、小さなことを言う。
激しいことを言い、優しいことを言う。
いずれも、言葉に取り付かれながらも、しかしそれ以上に自らに取り付かれた者は
その源泉をゴミのような自らに占めさせてしまう。

縺れを書くこと。揃いを書くこと。
二つながらにして必要なこと。
言葉を携えるとき、どちらが欠けてもいけない。
どちらかが欠けると、欠けたものはその代償をいずこかに求めなければならない。
表にされなかったものは時に鬱積し、表出する。
しかし、こなれない姿で現れることは多く、情熱ばかりが奔って、
形すらもまともに取れなくなっていたり、
貧しい形しか取れなくなっていたりするものだ。
二つながら、それを等しく晒し続けなければならない。
常に、瑕がある場所にまで進まねばならない。

いわく、「若い頃、私は小説家になりたかった」と…。
症状として現れたとき、自らの痛ましい姿を吐露する者は、
私にとって耐え難く映った。

血肉にならない言葉は、常触れ続けられるような場所にあるとき、
自らの衣服のように、優しく肌にまとわり、そして自らであるように
振舞ってくれた。そのように振舞うことができた。
しかし、夜がすぐに明けてしまうのを知っているように、
まとっているはずの言葉は、ただ私がすがっていただけの言葉となり、
すぐに忘れてしまうような儚いものへと成り下がってしまう。
儚さがいけない、というのではない。
儚さとはあまりに人を感情的にさせる。
いずれ消え去るものへの「情熱」が、人をおかしくさせる。
やはり、生暖かい場所はよいものである。が、瑕を求めなければいけない。
想像もしないような混乱と、困難をふっかけられるような場所へ行かねば。

顕すこと。
それだけで何かは変わる。しかし、何も変わらない。
少なくとも、自分の塞ぎこんだ秘教的部分は、暴かれることになる。
今はそれだけでいい。それだけを、常に試みてゆけばよい。
どうしたって気取り屋なんだから、すぐにおめかししようとするだろう。
裸体を見せたがらず、いつまでもぐずり続けてきたことを逆手にとって
今は、勢いをつける必要だけを求めよう。
しかし、それでも立ち行かなくなるときがくる。それが、瑕だ。
自ら、瑕を知るときがくる。自らが瑕であることを知るときがくる。

そして、彼女が相手の望む姿であろうとすること、を男が知ろうとすること。
男は、彼女の望む姿であろうとし、女は、相手の望む姿をとろうとする。
ここには、この先には、すれ違いでも、悲劇でもない、何かのかかわりが生じる。
(構造にかんして言えば、対称性は見た目だけでしかない。
対称性を前提にすると、必ずアポリアなどというアホらしい言葉が出てくる。
第一、理論などと簡単に述べるのも愚かしいことなのだが)
当然のことではあるが、そもそもすれ違いなどとは、理論上のものでしかない。
一方がその「事実」を知ってしまったとき、彼/彼女は別の何かになってしまう。