詩という表現方法

言葉の美感を求めるとき、何度も読み返すわけだ。
意味は通るか、聞こえはよいか、あるいは意味が輻輳するか、イメージは柔らかいか。その時々に、「詩」というものが言及されることがあった。かつて祖父は、年始に訪ねると勉強と称して詩をわれわれ兄弟に読ませたこともあった。薄い、古い匂いのする、四方と改行された残りが白く残された詩集。今や祖父宅を思い出す一つの象徴と成り果ててしまったが、強いて言えば、他人の、知性に依った淡い陶酔を見るようなものだった。当時より、何のことやらと避け続けてきた。実際に自分で手すさびに書いてみたとして、それは感情の溢れ出を書きなぐるよりも抑制的で、しかし陶酔的な気取りを感じていた。また、そのようにいちいち工夫するくらいならば早くノートに今の状態を書きおおせたい、とうんざりして早々に詩的な風体など放り出してしまうのだった。
とはいえ、抜きんでた学友の論文を見れば、すでに詩人や言葉に関する強い興味を見出すことはままあり、それではと思ってキューゲルやらエズラ・パウンドやらと古本を買ってみては読みもせず、いずれ十年クラスの棚の肥やしとして使い道を未来に託す程度のものだった。
だが、若い思想家が時折目配せする中井久夫にせよ、さらには吉増剛造など、「美しさ」を言葉に見出すとき、また物語のなかで挑戦的な表現を試みるのを見るにつけ、これはおそらく詩の価値をもう一度見出すべき時に差し掛かったのではないか、と思い当たる。萩原朔太郎賞、谷川俊太郎、そういった固有名詞がちらついては、気配ばかりで姿もつかませない。(もっとも、見出そうと思って見出せるような、手軽な価値が転がっているわけでもなかろう)
小説に詩的表現を忌む者もいるし、論文に詩情を持ち込めば、論理がそこなわれると詰る者もいる。しかし、ここはもう一つ、丁寧に事を見つめておくほうがよいだろう。

追記)
言いたいことを言い逃す、言葉が先走って何かさえも忘れ去られる、論理にこだわって痩せ細る、そう、言葉とはそういう風に使われるばかりではないのだ。もしかすると、詩には言葉の微細な感覚が凝縮されており、「佇立する」「途方に暮れる」という私の関心・私の姿を繋ぎ止めてくれる道筋(方法、とは呼びたくない)である(となる、とは呼びたくない)のかもしれない。