「私は私」という玉座

何を書くか。何故考えるのか。気にかかるのは、いつもそこばかりだ。
該博な知識に裏打ちされるような類のものではない。たしかに知識を溜め込むのもやぶさかではない。しかし、いつかは年を経ると忘れ去ってしまう。時々、ボケて全てを忘れ去ってしまうことを思う。溜め込んできたものなど、ゴミ箱に捨ててしまうでもなく、自らこぼしていってしまうのだ。
現実的な観点からでは、環境に適応するために細々としたことを覚え、例外的状況への対処方法を学ぶ必要がある。しかし、その一方で全く別の環境に置かれれば今までの経験が通用するわけではない。人生経験で乗り切るだとか言ってみても、いかんせん変化を前提としないような社会に慣れ切った頭では、結局は開き直るか、あるいは諦めるか、“実は自分は発達障害だったのではないか”と悩んでみるか、その場を離れて安住できる場所を別に求めるしかない。意外と、可塑性を自らに強いることを喜ぶ者はいないのではないか、とも思う。いや、誰だってそうなのかもしれない。心理学に依る者なら、これをホメオスタシスと呼ぶかもしれない。自分を動物に喩えて家ネコやイヌとして理解しようとするかもしれない。――名づけ方など、どうでもよい。理解の仕方などいくらでもある。ここに挙げたいくつかの姿に共通するのは、自分自身の存在意義に固執し、変化そのものに向き合おうとしないことだ。
知識は、自らを構築するための要件としてしばしば用いられている。何も、インテリ気取りだけの問題ではない。「私は今までこうやってきた」「この世界はこういうものだから」などのように、経験主義的な輩もまた、同罪と言っていいだろう。彼らにとって経験や知識は、自らに降りかかった問題を解決するための手立てというよりも、既存の自己を守るために「敵」を圧倒し、周囲との差異化を図るための道具でしかない。変化など望んでいないのだ。彼らにとっては、安住の地が守られることが至上であり、自分自身の場を占める――「私が私である」という保証、「私」という玉座が守られることだけが重要となる。彼らがどれほど人との交流を喜んだところで、それはオデュッセウスの英雄譚とさほど変わらない。「未知なるもの」を「既知」に還元し、より包括的な全体性を構築することだけが彼らにとっての目的となる。「我はかく戦えり」「我はそれを得し」。そう宣言できれば、彼らはもう十分なのだ。
昨日の会話を思い出す。これから私はどこに配属されるのか、私は知らない。入社の仕方から若干変則的ではあったし、それは仕方のないことかもしれない。もっともそれは、私の性格に負うところが大きいのだろう。何何がしたい、どのようなビジョンがある、そんなことは一言も云わなかったし、云おうとも思わなかった。確かに今の部署の業務は責任を持って行っていくつもりだし、そうしなければいけないと思っている。そこでどうしていかねばならないか、考えているつもりだ。しかし、こと自分の将来については、全く分からないとしか言いようがない。分からないのだ。人生計画を立てたり明るい未来があると言ったところで、何も私の支えにはならない。もちろん、それは将来を悲観しているわけではないし、場合によってはそれこそが面白いと言えるかもしれない。ただ、自分のことを知ったふうに宣言することができないだけなのだ。もっとも、そんなことを言えば上司に嫌がられるだけなのだが、と。おおよそそのようなことを言っていたのだ。


いずれは失われてゆく知識や経験を、自ら固有の要件とすることはできない。誰も保証しない将来を、「世界は僕らの手の中」とばかりに得心することもできない。残るのは何だろうか。私にとっては、考えることしかなかったのだ。


思考の基盤とも言うべき部分について、永いこと気にかけ続けている。思考が停滞してしまうことを、いつも恐れている。私が私であることを主張してしまわぬよう、過度に神経を張っている。無名の研究者が陥る自家撞着や、著名人が守り通す名誉。簡単に陥ってしまう“自らの玉座”の魔力、単純化の罠。また、肉体的な欲望の行く先のなさ。食べる・性欲を満たす、これらは覚醒時にさえ、自らの目をくらます。自足的行為は、身を震わすような充足欲求に追し出されながら満たされる。しかしそのあとに残るのは、祭の後の虚しさのような、肉体の余熱と冷え込みだけだ。
できることならば、ただ自らの肉体を喰い続けるような有様を繰り返すのではなく、より批判に曝されるような場所へ行きたいと思う。「自分を鍛える」とはよく言われるし、私もそう言っていたが、根幹が揺り動かされるような体験の可能性に開かれた場所へ。耳目を鋭敏にするという日常的な修練だけではなく、いやおうなく自らを賭けて召喚されるような場所へ。自らが凡庸であることを知っているのであれば、強制的な場、ホムンクルスのフレスコのような場を設える機会がどうしても必要となる。
このような見方は、若干なり“アンガージュマン”、社会参加の意で用いた実存主義に近く見ようとすることができるかもしれない。いかに生きるか、という問いを立てれば、自ら動いていくしかない、という答えが立ち、それは実存主義だろう…と。そんな形で人間の可能性とやらを追求する気はあまりないし、思想で社会変革などそうそうにできはしない。そもそも、社会的存在であるべき自分も、私が私であることを求め続ける理由も、どこにも見当たらないのだ。
しかし逆説的にではあるが、このことは「私が私であること」の反省から立ち出でている、という前提を自覚する必要がある。生きようとしている者に「死ね」という類のものではないし、肉体的欲望を喜びとする者に「死ね」と言うのでもない。行為そのものを批判しているのではなく、自らの行為を自らの根本的な存立要件として自覚する以上に、周囲に対して「正当化」する愚を犯してはならない、ということなのだ。言葉は流布すれば、他者への強制力ともなろう。「反省せよ」とは、他者にではなく、自らにこそ/のみ掛けることのできる言葉だろう、と思っている。

考えることに拘り続ける以上、いや言葉を発する以上、同時に身に刻んでおくことがある。考えることは、考えることそのものにしか行き着かない。アイデンティティ・地位・権力を目的にした思考は、もはや暴力でしかない。