NINIFUNI(覚書)

世界の底が割れるような感覚は、これまで見てきた映画にもいくつかある。そのなかでもこの映画は、自分にとってごく自然に馴染んだような感覚を抱かせた。“世界はぼくに気付かない。”キャッチフレーズというやつか。この言葉がわたしの見た映像をそのまま十分に説明してくれるがどうかはわからないが、ここに映し出されているラストの視点は私が感じていたようなものだったのかもしれない、とまで思った。脳天をかち割られるような気分で座席から立てなくなったのは『嫌われ松子の一生』だったし、『冷たい熱帯魚』や『ヒミズ』でもその方向に近い感じを抱いたのだった。しかし、この映画はそういう類のものではない。そりゃ、泣いてもいいのだ。こういうのは弱いのだから。でも涙の一滴も外に漏らさせない勢いで浸透していったために、観終わった後に、今までの生活感覚と微妙に二重写しになって、まるで『NINIFUNI』での雰囲気がもともと自分のものだったかのようにまでなってしまい、むしろ、どうしよう…と少し途方に暮れてしまうようでもあった。
「私」が死んだあとでも瑞々しい生が跳ねまわる。ももいろクローバーが踊る。あどけなく、しかし色気を含ませた声と姿の彼女たち。衣装姿で踊り出した時、離れた場所、しかし分からないことはないだろう距離で「私」が死んでいるということをあらためて思い出し、あからさまな落差に気付いてぎょっとした。しかし彼女たちは知らず、歌い踊る。ものともしない、とはこのことなのか。彼女たちを見ていると、彼女たちの存在感が前面に増し増していくようだ。しかし最後の光景こそ、「私」の原風景に位置づいてしまっているようにも思える。
行き場のなさ、とも言う。しかし主人公において言えば、とうに行き場などなかったのだ。日々の塵埃のなかで息をして、まみれていく。人知れずに。生きている限り、避けることのできない塵埃の中で彼は最期を選ぶ。「いつ?」なんて問いも無駄に終わる。「どうして?」なんて聞いたって仕方がない。「現代の若者」とうそぶいたところでお茶を濁す程度のものだ。原因とも言えそうな初めの光景は、その後に彼がたどる道行きの入り口にも見えるが、だからといってこれを因果的に結び付けたとして、誰が得をするのだろうか。
これは、一般的な社会的戯画だとか言うよりも、個人的な心象風景と見た方がよほど浸透する。対象化すると一気に明瞭さを失い、実体の所在を見失うようだ。では実体がどこにあるのか。対象化された部分ではない。それを映し出し、自らのこととして見誤ってしまうような自分こそが実体だというしかない。そして、恐らくは実体を自分に置いてしまっている以上、社会との接点のなかで意識的に振る舞うような体験的なものとは次元を異にした、自らの見ているものしか見ることができないというある種の盲目さのなかで、自分の“現実のようなもの”が、一言も声を発さずに自分の意識と関係なく鎮座している。見たくないものなのかもしれないのに、どうしても視界から離れようとしない。そのような、「どうしようもなさ」のなかに居る、ということがどういうことかを、この『NINIFUNI』は顕しているようでもある。