「考え」

考え――とここでは名づけるもの――が数限りなくあふれてくる。夢の中、「なぜ私ではなかったのか」という言葉を残して目覚め、何か大事なことを考えていたかのような思いを抱くこともある。本当に大事だったのかなんて、目覚めてしまった今では分からない。ただその時の印象では、抜きがたく必要な表現だと感じられたのだ。何にしたってそうだろう。印象やその言語表現とは、見ようによってはどれも似通ったものばかりだ。凡庸なシチュエーションに凡庸な表現、そんなものばかりで、では私がそれでもなお文章を書くのは、人びとが本を書くのはなぜか。つまり、みな、個人的には真理になど到達していない者たちばかりなのかもしれない。生者には一度だけ、死が訪れる。死の体験を前もって知ることができない、というのがほぼ一般的な説である。真理もまた、究極の到達点の謂いであるならば、決して辿り着くことのないものなのかもしれない。おあいにく様だが、私は形而上の存在がいるとは考えない。形而上の話はよくするが。そうそう、組合せの話だ。凡庸なものしか生み出せないとしても、非凡なものが出てくることはままある。ただし、自分にとって、あるいはこれこれの社会/時代集団にとって、という限定付きでだが。別の場所では当り前だったり、その昔には散々話題になったことなのかもしれない。ただ、それを知らないか、忘れているかというだけで。物書くは知ってか知らずか、書く。別の場所、別の時代に書かれたその組合せとしての文章は、それゆえに独自性を持っているかもしれない。唯一性と呼んでも差し支えないのだろうが、そこまで一つ一つの行為を大事に思う気もあまりない。あまり大事にしすぎると、人間存在を過大に尊ぶ風潮とさほど変わらない匂いを醸し出すだろう。“一人の人間がここに生まれ、存在しているということ、それは何て奇跡!”…うん、やはり好みじゃない。たまたま、それが新しいものとして受け入れられたとしても、私たちは何も新しいものを生み出しているわけではないのだ。ただ、それは自分にとって目新しいだけのことだ。
その目新しさに、どうしても私は惑わされているようだ。言葉にならないもの――“考え”と呼んでいるものだ――ばかりが、私の興味を引いている。「今なにしてる?What am I doing?」なんてたいして興味ない。「今何を考えている?」と聞かれたほうが、よほどいい。そう、とりとめもないことを私は考えている。考える以外に愉しみはないかのように。数々の…いや可算できないくらいに不定型の考えが浮かび、今朝見た夢のように消えていく。あまりに残念で名残惜しく、書き記しておかなかったことの後悔が募る。パトカーが拡声器で何か言いながら走っているのを聞き損ねた時に、どうでもいいが、もしやどうでもよくなかったのではないかという感触(おそらく端的に、私の性格が反映されるのだろう)。現実への向き合い方、その裏面でもあるような考えることへの固執は、現実が辛いとか、そういった理由から逃避的に選択されるというわけでもない。ただ、ただ、……なんなんだろう。