ベケット、肉感

*「方法的懐疑→孤独な主体→他者との出会い→愛→出来事(あるいは美)という、いかにも「哲学」的な線形の物語に回収されすぎている」
*『ベケット―果てしなき欲望』バディウによるベケット論。ハマノフスキによるレビューの引用

語ることもできないまま、言葉は駆け巡る。ベケットは延々と、ただ延々と言葉を連ねていく。私は、私なりにこれを理解できる、という生暖かい感触があった。知と感情が扱き混ざったなか、感情は言葉を参照し、言葉は感情を参照する。けして言葉にできぬ感情の渦巻きを強く実感せられ、そして同時に強い感情の渦巻きが外へと言葉となってほとばしり出てくる。言いたいことを言えば語彙も枯れてしまうかもしれない。・・・しかしそれは、「何か」(という対象化されたもの)を言い表すときの言葉だ。本性として言葉にならぬものは言葉で言い表され尽くすことがなく、また外に出て形を成すことにのみ欲望を抱いているのでもない。感情の渦巻き(他者に向けられるような、外向き他者行きのベクトルではない!)は、言葉の欲望を超えて、ただその状態を現す(表す)ためにいかなる方法を使ってでも姿を変えて地平を広がり、領野を制してゆく。限りなく、ただただその人がたとえ息絶えたとしても欲望は従属的立場をすでに逃れ、幽霊のように、電気のようにこの地を駆け巡り、さ迷い歩く。
ベケットは精神病院へ通院していた、という。彼は自らの「どうしようもなさ」、その佇立感のうちに張りつめたひと時の安らぎを見出していたのかもしれない。感情ばかりが中で強く渦巻いて、その苦しみで人は頽れようとする。困難さは解決されることもなく、よしんばいくらか楽になったところで何の解決にもならないことも十分分かっている。彼はものを作る人だからだ。中のうごめきこそが自らの生業となっているのだ。敵視したところで何の足しにもなるまい。感情は続く。言葉も続く。死ぬまでだ。安堵をこそ求める、というのであればこのような体験は苦しみ、超克されるべきもの、敵、副次的なもの、異物である。しかし彼は、戸惑いこそ歓びと感じていたのではあるまいか。いや、戸惑いこそ我、と。苦悶こそ我々を老いさせぬものはない。見た目にはエネルギーを使い果たし、日に日に枯れてゆくことだろう。一方で内部、思考や感情など形にならない者たちの動きはいつまでもみずみずしく、その軌跡は過去を捨てることがない。苦しみも歓びも、彼のなかにいっしょくたになって不定形の形をなして渦巻き続ける、そしてそれは時がくれば、いや時が来なくとも奔出する、迸り出る、流れ出す、溢れ出す、満ち溢れる、そして延々とどまることを知らず流れつづけてゆくのだ。この動き、

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うまく書くことと、感情が強いことは両立しにくい。
しかし、感情が強ければ、つたない言葉でも訴えかけるものがある。
もっとも伝え方は重要だろう。どんなに訴えかけたとして、伝わる形でないといけない。
最低限の形。木村H氏の話す言葉には読点がなく、句点もない。
論理的に見える文章が、分節を逃れた時、耳に入ってくることばは次第に音の連なりであることのみを主張し始め、意味をかなぐり捨て、またはその存在を存在たらしめるためだけに外へ発せられてゆく。何事か彼女が話し始める。その流麗な話し口とは裏腹に、聞く者ははじめ耳をそばだてて言葉の意味を捉えようとする。彼女の言葉にはなにか重要なことが入っているはずだ。あるいは、論理的に理解し、フィードバックする機会を得ようとして

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楽になった、という言葉。それは確かに実感として分かる
おそらく自分がそうなるであろうことは、今からでも分かるのだ。
ただそれは、いい化粧品を使ってその日の肌がきれいになった、
というのに近い気がする。
外から与えられたことを喜ぶのではなく、内から動き出せることを喜ぶのでないと
これからさき、私はなんども同じことを繰り返す。