モラトリアム

思いめぐらせる取り留めのないことどもをまとめて言葉にする、確かに至難である。
学問に身を埋めてしまいたいと思う。しかし、「両手で門を叩いてはならない。片手にはこれまでやってきたものを抱えて、門は叩くものだ」と、すなわち徒手空拳で殴りこみをかけるような真似をしてはならない、と。人から聞いた言葉だが同感だ。だが今の私は、十分な備えはあるか?殆ど義務で書いたような、数本の文章だけで何かしてきた、と言うわけにもいくまい。また、私がその門を叩くほどの「肚」はあるのか、と問われてもいまだ答えられない。この数年間は門を叩くために、自らを見極める期間だと思っている。
だが、実はこの考え方自体が顚倒・矛盾しているのだ。見極めのために期間を設けるのではなく、じっさい期間内に十分な備えを行うことが目的となっているのである。
また、私は爾来学問云々と言っているが、それは私の単なる逃げ口上ではないのか?という疑問だ。人付き合いを好む方ではない私が、人づきあいではなく自らの考えに逃げ込むために、学問だなんだと言っているのではないか?これは大方が事実だと思っている。自らの欲望のために選択するのであれば、許してはならない。――たとえば或る学生がこう言ったという。これからは進化心理学ですよ、臨床心理学なんて言ったら笑われますよ、と――流行り廃りで学問を考えているのか?まして、なぜ、正しい正しくないで心理学などという極めて不透明な分野を判断できるなどと思ったのか?科学的見地もある種の恣意的に選ばれた思想だ、という可能性を考えたことはないのか?そもそも、「笑われる」というような、他人から見てくれを気にするような物言いで、彼は何を心理学から得ようとしているというのか。自らの居場所を見つけるように、道を選ぶ、まして学問分野を選択するなど、不誠実の極みではないのか。自分を自分たらしめるために、今はやりのご機嫌な進化心理学を選びました、と?……進化心理学を腐しているのではない。そのような個人的な欲望、しかも「他者の欲望を欲望する」ような姿そのもの*1…で分野を乗り換える、というのが(私個人の感情として)到底承服できないのだ。
もし、私が彼と同じように個人的な欲望で道を選ぶとするのならば、早晩にも捨ててしまわねばならない。そして、道を歩むことができない、と分かったのであれば、今手元に持っている韜晦な文章全てを焼き捨ててしまわねばならない。そんなものは、あきらめると同時に必要でなどなくなるからだ。
さて、私はいったいどうするのだろうか。

*1:ひどい誤解、誤読。例のラカンの言葉を倫理的に摩り替え、指弾している。おそらく自己矛盾にさえ陥っているであろう表現。