発光、換喩

(これに対し)「日本的な光」には、主体と世界を媒介する「光」という発想、あるいは光とまなざしの同一視といった発想が欠けている。障子、行灯、提灯の昔から、丸形蛍光灯に至るまで、「日本的な光」は、しばしば点ではなくて面から発せられてきた。
そこには主体と対象の媒介物ではなく、光そのものを実体化したいという去勢否認的な欲望が見てとれる。ただちに特撮映画における「光線」への偏愛が想起されよう。われわれにとって光とは、不在の媒介物ではなく、流体のような実在物なのだ。その根源にあるのが、世界を照らすよりも自らが発光する古事記の神々、とするのは荒唐無稽に過ぎようか。
ならば、欠如によって恩寵を媒介する「西洋的な光」に対して、「日本的な光」は何を媒介するか。それは「空虚」である。あるいは中上健次に敬意を表しつつ「ウツホ」と呼んでもかまわない。私の仮説はこうだ。本質を欠いた神々には「神聖なる空虚」しか存在しない。そうした空虚さが現世と接触する界面で生ずるものこそが、あれらの発光現象ではなかったか。もしそうであるなら、ここにあるいのはもはや「西欧」対「日本」の対立ではない。実体のない「隠喩的な光」と実体化した「換喩的な光」の対比である。


「発光する神、あるいは換喩的感染」(斎藤環、『現代思想 2011 Vol.39-6 古事記総特集』p230)

引用部の1段落目。斎藤環精神分析的な観点が深く入り込んでいることが伺われる表現がある。「光とまなざしの同一視といった発想が欠けている」とは、西欧的・精神分析的なものの見方が日本では行われていないことの指摘である。第2段落でも「去勢否認的な欲望」と『日本的な光』を表す。
この「去勢否認」という用語を「根源的な欠如性」を受け入れようとしない謂いと設定されていること自体が、きわめて局限的な見方であるようにも感じる。もちろん彼は自らの精神分析的観点を自覚する。しかしそれだけでは、西欧の風土から生まれた思考の批判的思考に留まり、それ以外の風土からの全体図を提示するまでには至らないのではないか。引用部3段落目においても「隠喩的な光」と「換喩的な光」を対比しているが、はたしてどこまでの射程をもっているのかは判然としない。
また、私の不理解でもあろうが、「本質」の語義が分からない。本質を欠いた神々とはどのようなものなのか。それは、主体や実体の謂いではないだろう。まさか、一神教に対する多神教、「世界のパースペクティブ性を成立させるもの」や「まなざしの主体である自我の根拠」としての視点、すなわち「超越論的な視線」の主体ではない神々、という意味での「本質を欠いた」という表現なのか?自らが発光するというのでは、本質は担うことができないのか。「本質」という表現自体が、西欧的な観点からしか使うことのできないものなのか?
自らが発光する神々。多くの神々を産み出し、丸山眞男の指摘による「つぎ」の用法に見られる、「無窮の連続性が、『「永遠者」の観念に代置』する」ものとして、換喩的感染によるものだけではなく、ここでは発光という事態そのものを、より語られている文脈の風土を異なる観点から差異発見として見出すのではない、より”根付いた”方法によって取り上げることはできないものだろうか。